アンチテーゼ~『心』なんて言葉はいらない。
『心のメカニズムを解き明かす』とは、今は僕のライフワークといっていい。しかしこの『心』という言葉は実に厄介である。
言葉というのはいろいろな顔を持つ。心とは実に多種多様な顔を持つが、たとえば「心はどこにあるのか」という問いに対して、どのように答えるのがいいのだろうか。
人は頭で考えるのだから、頭にある。頭の中でも脳の部位にあたる。しかし、心が痛むとき、頭が痛くなるという表現はしない。胸が痛むとは心が痛みを感じているという表現に他ならない。では心は胸にあるのだろうか。
ドキが胸、胸である。
胸キュンである。
ここで感じるんだと示す場所はだいたい胸である。
胸が感じるとは意味が違ってくる。
これはいったいどういうことなのだろうか。
それは感情による体調の変化が現れるところが心拍数の増減であるからに他ならない。そうなるとロマンチックでもなんでもなくなる。しかし誰かを好きになって胸がどきどきする体験のある人は、心は胸にあるのだと実感できる。
この厄介極まりない現象は人の思考を停滞させる。なぜならこの話を議論として持ち出すことは、どちらかというとタブーであり、なぜなら非生産的極まりなく感じるからである。
果たしてそうなのだろうかと僕は思う。
なぜなら僕は僕という個に対して疑問を持っているからである。自己の肯定はしっかりとできているし、そう思う自分はゆえに僕であると言える。しかし、昔ほど、デカルトの言葉を義務教育の中で目にしたときほどの満足感を今は感じられずにいる。
他者(第三者)からみた自分の存在を僕は認識できる。それらを観測したときに僕という自分は僕のようにふるまっていることは疑いようもない。故に自己を肯定し得る。しかしそれらはA(自分)=B(僕)、C(他人から見た僕)がBであるのであれば、A=B=Cであるにすぎない。
僕を構成する外的要因(外見)に関して言えば裸になろうが、服を着ていようが僕は自分であることは証明可能だ。しかし内的要因(内面)ではどうであろうか。Cである僕は、実は観測者に対していろいろな振る舞いをしている。僕はそれがすべて自分であることを知っている。知っているつもりでいるからそれらは自分であると認めること(認識)することができる。しかし、僕を知らない観測者からすれば、外見こそほかの個体と見分けることはできるが内面はまるで観察できない。外見から推測することもできるだろうが、その精度は期待すべきもない。
内面を『心』とした場合、これはいよいよ厄介になる。僕がどうふるまうかということと、僕の『心』なるものを観測者がどうとらえるかなど、信用に足りる情報でありえない。
では『心』を『意識』という言葉に置き換えた場合はどうだろうか。意識をその人の行動から読み取ることはある程度可能である。人は無意識な行動と意識的な行動とを自他ともにある程度認識が可能である。
ミステリー小説における名探偵とは人の無意識と意識による行動を鋭く洞察し、何をしようとして何をしたのか、何がしたくなくて、何をして、何をしなかったのか、意識して何かをしているときに無意識にどんな行動をしたのか、しなかったのか。そうしたことを分析し、犯人(観測対象者)の行動(ふるまい)の原理原則を仮定(法則、方程式)し、その時、その場所で何が起きたのかを解明(予測)し、犯人の正体(個人の特定)に到る。
エドガー・アラン・ポーは『モルグ街の殺人』でとんでもない犯人の正体を解き明かす。
これまで僕は、『心のメカニズム』を解き明かそうとしてきたが、そのためには、心を定義しなおさねければならないことに今、気が付いた。心を意識と置き換えたときに、まったく別のアプローチが必要となるのは、『心』という言葉が、社会的、通俗的、医学的、宗教的な要素をミックスしたものであり、心が病む、心が乱れる、心が躍る、心が落ち着く、熱心、心理、好奇心、すさんだ心、心ここにあらず、と前後に付属する語彙によってあまりにも表情が多すぎてしまい、論点を絞ることを潜在的に難しくしてしまう。
そして何よりも突きつけられた大きな問題に対して、これから論じていくのであれば、もう、心という言葉は使うことがいよいよ難しいという自覚がそれを決意せざるを得なくしている。
そう、この『せざるを得なくしている』というのが、一番の問題、テーマなのである。
人には自由意志があるのだろうか?
最初、この問いの意味がよくわからなった。そこで実際に自分がどれだけ自由意志で行動しているのかを検証してみた。そして驚いたことに、自由意志による行動など、日常ではありえないことに気が付いた。
飲酒や喫煙、食事で何を飲み、何を吸い、何を食べるのかは一見自由意志のように思える。しかし、この店に行くのならこれを飲むとあらかじめ決めている自分に気が付く。そこには経済的に高い酒ばかりは飲めず、その中で最適解を選んでいる、これはもう自由意志ではなく、制限のついた選択であるし、そもそも酒を飲みたいと思ったのも、意識からではなく、そこに行けば誰かと話もできるし、楽しいし、楽しいことがしたいという欲求は、自由意志ではないことに気が付く。
そうして考えていくと、自由意志による行動など、日常ではほぼないことに気が付き、愕然とする。
そこで問う、そんな自分は何者なのかと。
自由意志を持つ自分は自分であるという前提が、我思う故に我ありを簡単に受け入れていただけのことで、本当の意味でも自我とは、いったい何であるのか。足元が揺らぎ、そこには恐怖心をはるかに超える好奇心が発生する。これすらも自由意志ではないことを認識し、もはや『心のメカニズム』を解くというテーゼ自体が無意味に思えてしまう。
意識とはいったい、なんなのか。
振り出しに戻れたことに、わくわくしている自分がいる。ここにこうして書いていることですら、自由意志ではない。これまで僕という個を形成してきた様々な経験と記憶が、書かなければならない、問わなければならないと僕に命令をしている。
これはいったい何者の仕業なのか。
これから長い旅になりそうだ。愉しみでしかたがない。そのきっかけに感謝したい。これはおそらく、自由意志だと思う。