【人の意識とは】アンドロイドの5分前と人間の5分前は同一なのか
この先には決められた道があるように思う。意思とは何か、自由意志は存在するのかと考えたときに、人間という生物が果たしてダーウィンの進化論のように地球上で進化したというのであれば、人が心――自由意志を獲得したことが、生存率を上げたことにどれだけ寄与したのだろうか。
人類は生物として、このようなギフトを得ているにも関わらず、狭い地球の中で争うことをやめず、宇宙の謎を解き、遺伝子の構造を解析し、AIに仕事を託そうとしている。もし人類がこのギフトについて、誤った解釈をしたまま、それらの科学を進歩させていった場合に、「アイル・ビー・バック」のような未来を想像してしまうのは、単にSF映画が好きというだけではないし、リドリー・スコットが「ブレードランナー」や「エイリアンシリーズ」で描いてきた種の創造、アンドロイドと人間は何が違うのかというテーゼを想起してしまう。
筆者は科学者ではない。好奇心旺盛で文章を書くことが好きな人間が、その好奇心の果てに観る未来が決して明るいものではないことに危惧をしている。ある人は言った「今の世の中には思想家がいない」と。
筆者は心にはメカニズムがあり、それを解き明かすことでより他者との理解を深め合い、武力による抗争を手段として使うような時代を終わらせることはできないものかと考えていた。相互の理解があれば必ず妥協点は見いだせるはずだというのは、個人対個人、小さな組織対組織であれば可能であることを多くの人が認識している。
しかし同時に民俗や国家という単位での紛争や武力闘争が人類の歴史であることを多くの人が認識している。
これは論理的には矛盾をしているし、情報化が進めば進むほど、このようなことは数も規模も減少すべきところなのに、まるでその未来が見えてこないのはなぜなのだろうか。
もし自由意志が本当にあるのであれば、自由意志の集合体はそのような結果をもたらしてしかるべきなのにそうならないのは、やはり人の行動はミクロでは自由であってもマクロではそうはならないというメカニズムがどこかに存在しているのであろうか。
だからこそ筆者は「心」を知るためにはまず意識や意思や意志について探求する必要がある。人類=ホモ・サピエンスはいかにして生存競争を生き抜き、現在に至ったのかを知る上ではユヴァル・ノア・ハラリ著の『サピエンス全史』を読む必要があるかもしれない。さきほど購入したのでそれを読んだ上でこのテーマには望みたいと思う。
事実を確認してそうだろうなと思ったこと。それは人間の行動は人が行動をしようと思う(自覚)する前から脳がその準備を始めているということだ。それをもってして自由意志は存在しないとは思えないが、かといって数秒先の未来を予測しながら人は生きているとも思えない。そこにはきちんとしたメカニズムが存在するのではないかと期待をする。
そして『世界五分前説』における時間という概念の認識への疑念は、筆者について言えば、中学生のころからそのような感覚、過去は確かに存在するが、完全に証明することは不可能であり、世界の存在そのものがまず、世界をみている自分があり、自分を見ている世界(第三者)がある、その世界空間でしか世界は存在できないのだという思考を幾度となく重ねてきた。
しかし同時に、次の日に学校に行けば、多くの生徒や先生が筆者の想定する行動の範囲で物語は進んでいく。非日常なことなど、そう簡単に起きない。筆者のいたずら心はいつもと違う行動や言動をすると、周りの反応がどのように変わるかと、向こうの世界にたびたびちょっかいを出してみたのだが、その効果が観測されるようなことなど滅多に起きなかったと記憶している。
もし、人類が他者の行動を予測できないのだとしたらどうだろうか。狭い教室に40名ほど男女が混ざっている。同じ地域に住んではいるものの、それぞれに違った家庭の事情があることもさることながら、個人個人に個性があり、それがどのようにふるまうのかまるで予測がつかないのであれば、それは恐怖でしかないし、ストレスでしかないのだと予想する。
深作 欣二監督の『バトル・ロワイアル』(原作:高見広春)は、そのような日常をぶち壊す内容になっているのが実に面白い作品だと言える。
今必要なことは既成概念を科学からもモラルや日常にある「なんとなく理解し、なんとなくうまくいっていること」に対して疑念を持ち、これからあるべき姿はどうであるかという議論なのではないかと思う。議論の先に何があるかはわからないが、何がわかって、何がわからないのかがわかるということは、物事を理解するうえで、認識する上で、重要なことなのだ。