アンチテーゼ~『自分に向き合う』なんていらない
『自分に向き合う』という言葉をたまに目にする。耳にすることは少ないけど、なかったわけではない。
まっさきに思い浮かぶのは『look at yourself』という言葉だ。
ユーライア・ヒープ(Uriah Heep)はレッド・ツェッペリンやディープ・パープルと並んでハイトーン・ヴォーカルを擁し、ハードロックの草創期から活動するグループの一つ。wikiにはそんな説明になっている。日本での知名度は低いと言っていいだろうけど、一部のロックファンにはこんなバージョンが思い浮かんだりするかな?
なのでまったく知名度がないというわけでもないのだけれども、この時代にこのバンドの名前や邦題が『対自核l(look at yourself)』というのもなかなかユニークで印象に残る。『七月の朝』を名曲として挙げる人も少なくないし、ロック好きの間ではこれで酒が何杯か飲める。
印象に残るのはジャケットのデザイン。ジャケット中央が鏡のようになっていて、のぞき込むと自分の顔が写る。
中学生くらいの時に中古レコード店で見つけてジャケ買いした。とても気に入っているレコードだった。
自分は何者なのかということについて中学生の頭であれこれ考えたものだった。かじった知識で「人は遺伝子の箱舟」だとか「我思うゆえに我あり」とか、そんな言葉を並べては、人とは少し違う自分でありたいと思っていた。憧れていたといっていい。
ロックミュージックに目覚めて、邦楽や邦画をことごとく小ばかにしていた時期でもある。まったくもって勘違いなのだが、のちにそれは『中二病』なんて呼ばれるようになるのだけれども、まぁまぁこじらせていました。
『サラリーマンになりたくない』などとほざいて回っていたし、選挙権を持てば、与党に入れるなんてことはまるで考えもしなかった。大勢は常に悪者であり、マイナーイズベストだなんて思っていたあの頃。
しかしそんなものは社会人になるころには良くも悪くも丸くなり、世の中を達観視しながら、本当に好き勝手にやっていた。やっていたといえばやんちゃに聞こえるけれども、何もしないをやっていたと言った方がいいのかもしれない。
さて、いま人生の折り返し地点を過ぎて自分自身に向き合えと言われたなら「そんなことを言われなくても毎日向かい合っているよ」と答える。ある意味、僕が今一番興味を持っているのは自分自身なのだから。
すごく大雑把に言えば、僕は僕という人間を一度リセットしている。『めけめけ』というハンドルネーム(今はその言い方はしないか)を持ち、周りから「めけさん」とか「めけ」とか「ちゃんづけ、さんづけ」で呼ばれるようになり、周囲にそう認知されることで僕はそれまでの僕とは違い、外向けの顔とうち向け(家庭や仕事)を完全に使い分けるようになった。
だからこそ、本名の架間(かけま)ならどうなのか、めけめけならどうなのかということをいちいち考えるようになった。一部は統合し、一部は分離して管理している。そう、僕は毎日自分の役割を管理している。常に向き合っているのだ。
とはいえ、自己管理だけでは不十分だ。僕はそれぞれの顔でいろいろな方から指導を受けている。指摘や注意を受けている。それはとても大事なことで、二つの顔に対して相互に影響しながら反省と改善の材料としている。
しかしながら僕は懲りない。それが自分であると自覚し、それこそが『核』であると確信している。核心を突かれながらも、時には握られたり、蹴飛ばされたり、放り投げられながらも『核』は壊れないし、変形しない。欠けもしなければ雪玉のように大きくなりはしない。
そしてその『核』とはいったいなんであるのかとことあるごとに考える。ペルソナはこの『核』から派生した仮面でしかない。役割に合わせて「家族と仕事と親しき隣人」と「創作活動・イベント・交友・交流」での仮面を付け替え、演じている。演じているという自覚を持つ自己が存在し、一人で物思いにふけるときの仮面をはぎ取り、『核』がむき出しになっているときに自分を笑うのである。
しかしまだ十分ではない。『核』の存在を認識している僕はいったい何者なのだろうか。その構造的に不可視だった、或いは無自覚であった『自分という名のあいまいな存在』、自分は自分であると認識する存在に目を向けている。
自分を見つめなおしたところでそこには自分しかいない。まさに『対自核』なのだけれれども、分子レベル、或いはそれらを構成する原子や電子、さらに素粒子に至るまで自分を観察していくと、そこには生と死と意識と無意識しか存在しない。
そしてその構造は言語化可能だ。生と死の間に時間が横たわりその上に空間が存在する。時間は直線のように見えて枝分かれを幾つもしている。選択しなかった「もしもの自分」は脳内に存在し、それらは無意識へと転化され、意識を監視する。意識は時間と空間を認識しつつ、無意識の重力の影響下にある。
この重力は柔軟性の「柔力」あるいは「呪力」になり、選択した時間軸の死に向かう方向性に対して影響を与え続ける。それに抗う力、意識には意志という生から発生した慣性が働き、死に対して円を描くように自由落下する。
こうした構造は宇宙の構造にとても酷似しているように見える。僕はそれを解き明かし、方程式を求めている。それが僕にとっての「自分を見つめる」という一義的な概念であり、それを踏まえて言えば、先に述べたよく見かける、たまに耳にする「自分に向き合う」などというのは不要な言葉なのだ。
ああ、面倒だ。と僕の意識は思う。しかし説明はしたほうがいいと僕の無意識が働きかける。死<事象の地平面>に近づけば近づくほどに、その力は強くなるように思える。だから書く。
僕の核は書くことに等しい。なぜなら死んだ後にも文章は残るからだ。死の地平面の先に僕が落ちたとしても、書いたものはなくならない。それが生と死と自分という存在を同時に証明しうる方程式の仮説なのだと、僕は思っている。
それは記憶に基づいた思考を僕の意識化の中で記録した図面、海図、或いは設計図なのだと思う。
そう考える僕には「自分に向き合う」なんていらない。
しかし、引っ越しの際にアナログレコードをほぼ全部処分してしまったが、こういう記事を書くともったいなかったと思う。
そうしなかった時間軸の僕は、重力にように引っ張り、この記事を書かせたに違いないのだ。
注釈 事象の地平面