
アンチテーゼ~真実なんかいらない
見出しとしての信頼性の低さ
見出しとして『~の真相に迫る』とか『~の真実とは』などというワードが散見する。
結論から言うと、いらない。そんなものは欲しくないし邪魔だと思う。あえて必要性を探すとすれば、それはそういう見方もあるのか、そういう見方をしたい人たち、見せたい人たちがいるのかというベクトルの観測でしかない。
『真実』とは『うそや飾りのない、本当のこと』となる。
真実の前にはすべては平等であり、真実は公正であるとは言っていない。僕は常日頃から嘘の中にこそ真実相当性のものが存在すると思っている。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、これが事実なのだと僕がずっと考えている。
真実の反対が虚実とは限らない
嘘には必ず明確なベクトルがある。隠したい事実、隠したい心情、偽りたい事実という存在を証明するのが嘘である。虚があって真があるというのが僕の哲学だと言っていい。
だからこそ、人に押し付ける気はないのだけれども、真実以外が虚実であるという立場にある人を、僕は信じない。
信じて用いない。
真実と言われること、うたわれていることにはある一定の信頼性は認めるがそれは限定される。その範囲を超えたところでは、『真実以外が虚実である』という主張がなにかとトラブルを起こすからだ。
論理的にはAの反対がBであるのであれば、Bの反対はAである。しかし現実社会における真実と嘘の関係にはこれに当てはまらない。Bの反対にCも含まれ、CとAが同一とは限らないからだ。
世の中にある事象、事実はその時その場所で確かに起きた行為である。しかし事実が一つの真実しか持たない事象は、僕の感覚で言えば数学的に証明可能なことに限られるのだと思う。
一つには数学的に証明できる事象は必ずイコールで過程と結果が結ばれる。求められた結果の中に必ずその要素と変化が入っている。しかしながら人が知覚的に観測した事実というのは、知覚的、認知的、知識的な要素を鑑みると必ずしも真実が一つとは言えない。
高度なテクノロジーは魔法と見分けがつかない
100年前、1924年にスマホを持っていけば、それは見る人にとっては魔法であり、科学者にとっては未来の技術であり、軍隊にとっては未知の兵器である。これはいささか極端な話だが、地動説や相対性理論が事実に基づいた新しい理論であったにもかかわらず、多くの人が否定的であったことからしても、テクノロジーの分野においては真実が一つということは危ういのである。
論理出来でないものはまやかしに違いない=Aの反対はB
しかしながら僕が真実などいらないと言っているのはそうした日進月歩で変わる分野の話ではなく、数百年単位、或いは数千年単位で変わらず営まれている人の暮らしの中にある、些細な事実に対する真実と虚実の話である。
泣いて馬謖を斬った話
誰かが誰かを殴ったとしよう。XがYを殴ったのは事実である。しかし言語はそれを単一なイコールで結ぶことはできない。YはXに殴られたも事実である。XのこぶしがYの顔に当たったというのが事実であり、殴ったはこの事象をXの故意による暴力だと認識した場合の言語表現である。
三国志の中の有名なエピソードに『泣いて馬謖を斬る』という上司が部下を処罰するという逸話がある。
蜀の武将の馬謖が、街亭の戦いで諸葛亮の指示に背いて敗戦を招いた。この責任をとり馬謖は処刑されることになるが、愛弟子の馬謖の処刑に踏み切るにあたり諸葛亮は涙を流した。後に蔣琬から「馬謖ほどの有能な将を」と彼を惜しむ意見もあったが、諸葛亮は「軍律の遵守が最優先」と再び涙を流しながら答えたという。
知っている人も多いと思うが三国志には正史と演義があり、そこではこのような違いがある。
「正史」では「諸葛亮は彼(=馬謖)のために涙を流した」と書かれている。つまり、軍律を守る為に愛弟子を処刑することになり、彼のことを思って諸葛亮は泣いたとされている。
しかし『演義』では、何故泣くのかを蔣琬に訊かれた諸葛亮は「馬謖のために泣いたのではない」と答えている。諸葛亮は劉備に「馬謖を重く用いてはならない」という言葉を遺されていたにも拘らず、その言葉を守らなかった自分の不明を嘆き、泣いたとされている。
泣いたという事実も、正史と演義では何に対して孔明が涙を流したのか解釈が違っている。切ったのも身を切られる思いをしたのも孔明でありながら、涙は愛弟子への思いと自戒というニュアンスの違いが生じている。
演義の脚色は盛っているとも捉えられるがしかし、実際に孔明の心境を考えればゼロイチでどちらが一方が真実であるとは言い切れないのではないだろうか。
愛弟子との思いと自戒の念は両立できるし、混在できるし、その割合がどちらが高いかなど、孔明自身にもわからないのではなかろうか。
つまり心とはグラデーションなのである。
もちろん、この話は研究者の中でいろいろな深堀がなされているだろ。しかしながら、ここで問題にしているのはもっと身近なエピソードとして目の前で誰かが誰かに殴られているのを見たときに、果たして真実は一つと言えるだろうかという話である。
もしあなたが殴ったXの知り合いだっととして、XがYを殴ったと表現するのか、YがXに殴られたと表現するのか、それを聴いた人がどう感じるかを直感で感じながらあなたは話をするでしょう。
もしあなたが殴られたYの知り合いだったとしたらどうでしょうか。しかしこれらの表現には殴ったとい事実に対して、ひとつ以上の真実が現れる可能性があることに留意すべきだと考えます。
『Yは殴られたXによって』という言葉も観測者の立場がXの知り合いなのかYの知り合いなのか、或いはどちらも知っているのか、その逆かによって類推される事象が異なることになる。
例えばYにはXに殴られても仕方のないような事由、Yの言動が引き金になっていたり、態度や過去の経緯から原因がYにあると知っているときに人はそのような表現をします。
たとえばXが男性、Yが女性だったどうでしょうか。あなたはどちらにも面識がないとして、いきなり女性が男性に殴られたと思うでしょう。だからYがXに殴られたと無意識に言うかもしれません。
しかしそのXとYの関係を知っている誰かからすると、YはXに対して殴られても当然のことをしていた、もしくはその目撃者はYのことを快く思っていなかったとした場合、結果としてXがYを殴ったと表現するのか、YがXに殴られたと表現するのか、観測者のベクトルによって表現者取捨選択される。
真実を知りたければ観測者を知るべき
『殴った、ぶん殴った、暴力をふるった』など、いろいろな表現の中から人は言葉を選択し、組み合わせ、並び替えてものを言う。それを理解したうえで物事を見た場合に見えてくる真実とは実に多様だ。
前例の場合、男性が女性を殴ったという事実から、そもそもそれを悪だと認定することは大いにありうる。少なくとも僕はそうだと感じる側の人間だ。
しかし見た目が女性であったからと言って、彼女が男性よりも弱い立場にあるとは限らない。
さんざん精神的或いは経済的、社会的な圧力を加えてきた女性に対して男性は最後の抵抗に出たのかもしれない。
それでも社会的規範で言えば男性であろうが女性であろうが暴力は肯定されない。しかし人の社会には殴られて当然というシチュエーションも存在し、暴力がすべて法で裁かれるというのも非人間的だと僕は思う。
真実がどちらが正しくどちらが間違っている、或いは悪意の質量や範囲が社会的詰念を超えているいわゆる悪行であるのかのどちらかでしかないなどということは極めて稀なのではないだろうか。
僕がこうした真実の在り方について体験した話を披露して、読者の方に考えてもらいたい。
ある晩、ほぼ明け方という時間に仲間からメールが届く。内容としては仲間同士で飲んでいたらAとBが殴り合いのけんかになってしまったという。僕としてはその一次情報をまず疑った。AとBは女性であり、直前まで僕もその飲み会に参加していた。店を変えた時点で僕はきなくさい感じだなと思っていたが、それはAとBの間の話ではなく、メールを送ってきたCとAの関係のことだった。
さて、メールのあと、仲間同士、事実確認をその場にいたそれぞれにした。酔っぱらって覚えていないという話もあったが、そういう者が現れたときには、僕には知られたくないようなことがあったんだろうと推測した。
Cからは訂正のメールがきた。殴り合いは大袈裟だった。AがBにつかみかかり、BはAの職業柄けがをさせてはいけないと思い抵抗はしなかったという話だったが、この時点から情報が錯綜し始める。
この場合被害者がBでありAが一方的に暴力に訴えたという見立てが成り立つ。全員の証言がその方向であったことに対して、とうの加害者であるAは「私は悪くない」の一点張りで何があったのかを積極的に説明しない。
さて、ここに真実を探る材料はそろっているだろうか?
登場人物は
A加害女性
B被害女性
C一報をくれた男性
D寝ていた男性
E酔った女性
F帰った女性
X目撃者
結果的にAはこのグループを去ることになる。この件は一種のタブー扱いであったように思うが、「楽しく飲もう」をスローガンにこのメンバーとの付き合いは続くことになる。
正直違和感しかなかったし、彼女が復帰する道を模索していた時期もあったが、Aとの対話の中で、その可能性はないと判断した。
判断の理由としては、Aには言いたくない事情があり、喧嘩そのものよりも、喧嘩の原因となったいくつかの事情があるのだろうと僕は推測し、それが彼女だけではなく、その場にいた全員にとって不都合なことであるのだと察した。
時は流れ、人の口も緩んでいく。一時期疎遠になった彼女と会う機会もあったが、彼女からその話が出ることはなかったし、僕からすることもなかった。必要がなかったと言っていい。なぜなら僕にはおおよその検討がついていたからである。
結論から言うと、その場にいた第三者Xからの証言を得ることができたことからそれは裏付けられた。AとBがもめる前、AはCに絡んでいた。ここは全員の証言と整合性が取れている。つまり誰も語らなかった事実だと言える。
しかし何についてAがCに絡んでいたかという話は誰も証言していない。そんなはずはないのだ。知らない、わからない、酔っていたから覚えていないはその事実に対する距離を取りたいとそのテーブルの全員が思っていたのだろう。
第三者は距離があったので会話の内容までは聞いていない。これは信頼できる証言だ。
次にもめごとになる前、重要な事実がその場にいた誰もが言いたくないことが起きていたのだと分かった。
AはCに絡んだあと、寝ている男性Dにちょっかいを出し始めたのだ。ちょっかいとはすり寄ったり、彼のことを褒めたりと、つまりはCに対して当てつけをしたのである。
本当にそういうことがあったかどうかは見ていない者には知りようがない。しかし、そのテーブルにいた全員がそのことを覚えていないのにも関わらず、その第三者Xにはその行為が目に余るほどのアピールだったという証言を得ている。
僕は最初の情報の中でBがAに対して、何か気に障ることを言ったことが原因だと考えていた。それが何であるかも心当たりがあったし、それを言われたら確実にもめごとになると想像できた。しかし、なんでそんな話になったかは分からなかったが、Xの証言によって9割ピースがそろった。
1)AとCは男女間で何かあったがそれは秘密であり、しかも破綻していた
2)AとCは、Cに好意を抱く女性Fとのことで一度もめている
3)全員それを知っている
4)もめごとのあとAとDは一緒に帰り、BとCが一緒に帰った
5)第三者Xは店の臨時従業員であり、そのメンバーとは面識がない
1)に関することは、様々な別の証言や当人たちの言動、行動から容易に推察できることではあるが、事実とはいいがたい。
しかしそう仮定したときにだけ、ひとつのストーリーが浮かんでくる。事実としてAはCが好きだったとCは漏らし、CがAを口説いたんだとAは漏らしている。Aの証言に関しては僕自身が二人のやり取りを切り取った形で見ている。
残念ながら僕しか知り得なかった事実は物証にならない。
AにもCにも認めたくない事実があり、それは1)にあるようなことでもない限り、CはとにかくAには隠しとさなければならない事情があった。もちろんCにもその理由は散見するし、Aと同じくそれを認められない事情を知っている。
事実あっただろうことをまとめるとこうなる。
◆AとCの関係破綻
AとCは飲み仲間以上の関係が一時あり、それが破綻した。それはもう一人の女性Fを巻き込み、仲間内でも問題になっていた。それが解決しないままの飲み会。AはCに問い詰める気満々で酒を煽る。このときすでにAはDにちょっかいを出し始めていた。
◆普段酔わないAがアルコールに身を任せた
次の場所を移る段になって僕は彼女が決着をつけるくらいの勢いであることに気づき、二人の時間が必要だと二次会をキャンセル、同じくもう一人の女性Fもキャンセル。A、B、C、そして酔ってすぐに寝てしまったDと何も覚えていないと言ったEが残った。
◆それぞれの思惑の交差
AはCに詰め寄り、その後寝ているDに絡み始める。見かねたBがAを制止しようと「Aが一番言われたくない言葉」を言ったことでAが逆上、つかみ合いの喧嘩が始まる。そのとき酔って覚えてないEはその様子を見て失言をする。(仲間としてその失言は不適切で失礼極まる。僕は彼女とは距離を置くことにしているが、それが事実であるかどうかはわからない。伝聞であるが、Cがのちに口を滑らせたから事実だと思われる。あとから盛る必要性がないので事実だと思われる)
◆ことの大きさと原因の矮小さ
従業員が警察を呼ばなければとなるくらいの大ごとだった。もみ合いレベルではない。大ごとだ。
Cが仲裁し、AとDは一緒に帰り、BとCも一緒に帰った。Eは不明。それからことがあってからかなり時間を置いた明け方にCから僕にメール第一報がある。この時点でBとCは今回の顛末について、誰に何を言うかを相談している。
Aから僕にメールが来る。内容は「私は悪くない」というだけで何が起きたかは不記載。
もし、Aが事情をすべて明かして身の潔白を証明するのであれば、AとCの関係の話をしなければならず、またDにちょっかいを出したことも言わなければならない。それは彼女のプライドからすると出来ない相談であると知る。尚且つそれが証明できたとして、AがBから言われた言葉もEの言葉も取り消せない。なかったことにはできない。
つまり恥ずかしいほど矮小な原因での喧嘩なのである。
◆違和しかない説明
後日Cから情報訂正。BはAを気遣って抵抗しなかったという文言が加わり、殴り合いがつかみ合いに変更された。これはCが関係者に口裏を合わせた可能性がある。
後日Bから事情を聴くが、Cのメール以上のことは何も聞けなかった。DとEは覚えていないとだけだった。警察沙汰になるほどの騒ぎだったということは後で知ることとなったから、この時は覚えていないという言葉を信じたが、AはDに口止めし、BとCは口裏を合わせ、Eは自分の失態をなかったことにしたかったのではないだろうか。
◆もうひとつの偶然で明らかになったこと
僕は嘘だと思われることからこんな事実があったのではないかと考えていた。しかしそれを暴いたり、口にすることで解決することもないと思った。
だから放置した。
数年たち、第三者の証言を得られたこと、あわせてCが口を滑らせたこと、Aが黙秘していること、もっと決定的だったのはAとBが鉢合わせたとき、会話は聞き取れなかったが、BはAにずっと謝罪をしていた。
◆結論 Aは悪くない
つまり本当に何があったかを知りえるには、それだけの時間が必要だったということだ。しかもそれをもってしても真実相当性のある事実は希薄だ。ことの動機の部分が推測でしかない。
結末はBはAに謝罪をしたという事実だ。Aが言う「私は悪くない」は証明されたことになる。
それを無視し続けていた多数のほうが間違った解釈をしていたということになる。
どうだろうか?
もちろんここには誤認が存在する。BがAに謝罪をしたからといって道義的にAにまったく責任がないとは言い難い。しかしそこは女性同士の認知領域である。論理よりも感情が優先すべき事案だと考えるべきだし、感情面でBが謝罪をしたからといって、Aにまったく責任がないとは言えない。
言えないが、ことの解決でいえばこれが最適解なのだと思う。
大きな視点でまとめると、誰かが語る真実なんて必要ない。嘘から見える事実の方が確実だと言えるのではないだろうか。
しかしそれでも足りない。真実は多様性がある。CはBが気遣いでAの暴力に耐えたと言った。なぜ? となったのが疑問の最初、違和感を覚えたきっかけであり、当事者から本当の話は出てこないと思っていた。
神様の悪戯で、その場を観たという第三者Xが現れることで、不意にひとつの事実が目の前に現れた。もし僕が無駄に真実を求めていたのなら、誰かの言っていることが嘘で、誰かが言っていることが真実と考えていただろう。
しかし僕には嘘にこそ心があると思っているところがあり、人の嘘を嫌いになれないし、ひとつの事実から見えるそれぞれの真実はあるのだと考えている。
あのとき正しいと思ったことが今日も正しいとは限らない
もし時間をかけず、これらの事実を僕が知り得たとして、そのとき僕はどうしただろうか。
後日、僕は似たような場面に出くわし、そこで何が起きたかについて、推論し、おそらく正しい結論を得ていたのだと思う。しかしながら、それによって何ができることが変わったかと言えば、そうではなかった。
そこに踏み込むのであればそれ相応の覚悟が必要で、今回こうしてnoteに書くことでも、僕はそれが正しいかどうかはわからない。
しかし、あまりにも世の中が嘘に対して過敏になり、真実を語れと言わんばかりに、あれこれと詮索をするのはどうかと思う。
それにこの考えのまま、僕がこの先もいるかどうかも怪しいところだ。
あったことはなかったことにはできない。
それは僕自身が時間の概念としてとらえているすべては繋がり、連なり、それでいて個別であり、それらを結びつける点に事実がある。
その時見た事実、過去として振り返る事実では意味が変わることもある。真実というものが本当にあるとしたら、それは普遍的ではありえないのではなかろうか。
求めて得られる真実など、ほんの表面の部分でしかない。だとすればあったことの意味を持たせるのは今であり、これから先にこそ真実にたどり着く道があるのかもしれない。
だからすぐに手に入る真実なんかいらない。
僕の真実は、この件で言えば、人は事実に縛られたくないときに嘘をつく。嘘によって得られた自由は結局のところ嘘によって縛られている。
ならばこの先にその事実を受け入れられる自分になることによって、縛りから解放されたらしい。しかしそれによって傷つくものもある。その天秤を常に目の前にかざし、道を模索していくしかない。
いつかこのことを誰かに話すときが来るかもしれない。そう考えたとき、一度考えをまとめるべきだと僕は考えた。
だからnoteに書いた。
その判断が間違っていたかどうかは、この先わかるだろう。僕にとって真実とはそのくらい遠いもの、手に入らないものなのだ。
あのときもし、僕がその場に残っていたのなら。そう思いAに謝罪をしたのは、同じような出来事が起きたときだった。
油断したとは言わないが、そうなる可能性を考えられる立場でありながら、それができる精神状態ではなかった。ひどく酔ってしまっていたので視野が狭くなっていたし、思慮が足りなかった。
いや、あのときのAと同じように酒に身を任せて思考を停止させたのだ。
その同じようなことが起きたとき、僕は他の当事者にこういうことがあったのではないかと確認をし、概ねあっていた。そしてそこでも彼らは言葉を濁していた。決定的なきっかけについては誰も言わない。
これ以上誰かが傷つく必要なないだろうという配慮なのだろうけれど、それを責める気になれない。
むしろ、そうあるべきなのだと思う。
さて、結論から言えば、第三者が暴こうとする真実など取るに足りない薄っぺらいものだという事実だ。
そこには人の思惑が何重にも交差し、混じり合い、溶け合い、そして風化していく。
風化が進む段階でやっと骨組みが見えてくる。それが事実であり、それはなかったことにはならない。
真実なんかいらない。しかし世の中は嘘の数ほど真実で溢れている。嘘と真実の境界線に事実が存在し、その位置は絶対に動かない。であれば僕は真実と嘘を聞いて事実を見る。
嘘の数より真実が多い時は慎重になるべきだと、そう警鐘を鳴らしたい。
人の心のメカニズムとは実に面白いと僕は思う。それは不謹慎でありながら事実なのだと思う。
僕は「泣いて馬謖を斬る」という孔明の罠にはまっているのかもしれない。