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アンチテーゼ~「ルーレット」「タックル」のスポーツ記事は食卓にいらない

 パリ五輪、柔道団体の決勝戦で行われた同点でのルーレットが話題になっている。が、筆者は昨日まで知らなかった。

 こちらに書いた通り、筆者は柔道にそれほど明るくない。シドニーオリンピックの篠原に下された判定のことや、ルールの改正の度に起きる『これは柔道なのか』という議論は知っているし、これはもはや自分たち(あえて日本人とは言わない)が知る『柔道ではなく、JUDOである』という話も含めて、どこに焦点を合わせて議論するべきかについて、もう少し慎重になるべきだという思いから、こうした場で取り上げるには筆者の取材力では難しいと考えている。最初に大きく柔道が変わったのはシドニーではないだろうか。そのあたりからのことを書いてもいいのだが、しかしどうにもきりのない作業に思えた。今回筆者が書こうとしているのは別のことである。

 今回取り上げたのは、昨晩、食卓でカミさんから「あのルーレットはどう思う?」と聞かれたからなのだが、なんとなく団体で同点のときはルーレットで対戦する階級を決めるというのはしっていたので「そこに不正があるかは知らないが、デジタルだろうがくじ引きだろうが、誰もが納得ってルールにするのは無理じゃないか」と答えた。
 カミさんはスポーツ観戦を楽しむようなタイプではないし、食卓でスポーツの話が上がることなどめったにない。そんな彼女でも話題にするほど筆者の知らないところで大きな問題になっているのならば、一度ちゃんと調べてみることにした。

 率直な感想で言えば、そこに不正はなかったとしてもあの流れでは不正があったと思いたくなるのも無理はない。政治家が秘書がやったことだと言って自分は関与していないと記者会見を見たらほとんどの人が「いや、そんなはずはない」と思うのと同じだ。そこに不正があろうとなかろうと『あの文脈』では、そうなってしまうのも無理はない。

 柔道は体重と性別で分かれている。団体戦は男子・女子それぞれ3名ずつ男子が73キロ以下、90キロ以下、90キロ超、女子は57キロ以下、70キロ以下、70キロ超となり、同じ階級の選手同士が戦う。
 この時点でわかることは3対3の引き分けになる可能性があること。その決着はどの階級で対戦するのかをルーレットで決める。一見公平そうに見えて、ここには大きな問題がある。条件は同じであってもどの階級に決まるかによって『おおよその結果』が見えてしまうことだ。もちろん力が拮抗している階級もあるだろから不公平とは言えない。

 ここでひとつ不毛な話をいくつかしよう。まずルーレットとはギャンブルであり、胴元に有利にできている。しかしギャンブルは成立する。なぜならプレイヤーはそれを承知で駆け引きを楽しむからだ。そしてオリンピックのような協議に「ルーレット」を持ち込むことはそのイメージを持ち込むのと同じこと。結果によって「いかさまだ」と言われても仕方がない。不正がないとしてもイメージが人の心を引っ張る以上、我が家のカミさんが食いつくくらいにそこには「いかがわしさ」が潜んでいる。
 次にデジタルであろうがアナログだろうが確率が完全な等分であることはない。乱数の計算式が6分の1だったとしても、それを60回やったらすべての目が10回ずつでることはない。もちろんそれがこのケースでの問題になるとは言わないが、とはいえプログラムソースを開示してそのロジックまで可視化するなどナンセンス。サイコロでも6面すべてが同じ抵抗、同じ質量であることを担保することは難しい。何が言いたいかと言えば、その仕組みにスポーツ的公平性を求め、誰もが納得できるようにすることは不可能なのだ。
 そしてこれが一番の問題なのだが、大舞台、力が拮抗していれば同点での決勝戦になることが分かっていながらそれを抽選で決めるというやり方そのものが納得性に欠けている。もっと言えば想像力が欠如している。

 柔道の男女混合団体戦が正式なオリンピック競技になったのは前回の東京大会からである。柔道をある程度観ている人なら知っていると思うがもともと柔道の団体戦は国際試合では2015年の世界選手権団体戦が始まりであるが、もともとの柔道の団体戦は体重分けをせず、無差別で男子は5人、女子は3人で争う競技であり、勝ち抜き戦方式で行われる。
 筆者はこの団体戦形式をの試合を観戦するのが好きだ。5人の順番は好きに設定できる。普通に考えれば体重の軽い順に並べそうだが、その中での実力者というのは必ずしも体重に頼らない。柔よく剛を制するという柔道本来の姿がもっともリアルに観戦できる対戦形式であると思う。

 オリンピックの性質上、できる限り男女に同じ条件で協議をすることが求められている。卓球は男女それぞれのシングル、ダブルス、混合ダブルス、そして団体と分かれており、球技と格闘系スポーツの違いはあるが公平で公正な勝負を観ることができる。柔道でミックスというわけにもいかず、比べることはできないのは承知の上で例に挙げているのだが、勝負がついた後のもやもや感など残らないに越したことはないのである。

 とどのつまり、重量級において日本はフランスに劣っていた、フランスが勝っていたという事実がルーレットによって引き合いに出されたことがもやもやの原因であると同時に、それより前の試合、日本の3―1で迎えた66キロ級阿部一二三と階級がひとつ上の73キロ級ジョアンバンジャマン・ガバの一戦。阿部に押されていたガバには消極的なプレイ(攻めに行かず、行けずに守りに終始する態度)に対して二つの指導がでていた。ルール上、3つ目をもらうと反則負けという場面で、ガバは三つ目をもらわずに逃げ切りゴールデンスコア(延長戦でどちらかがポイントをとると勝敗が付く)にもつれた。ここでのガバ選手のタックルのような肩車が阿部の意表を突き、一本勝ちを収めて流れが変わった。

東スポWEB

 ニュースサイトなどでは勝ったガバ選手のコメントやあれは柔道ではなくレスリングではなどの声と普通なら指導3つで終わっていたはずだとの声が多くみられる。まずガバ選手はこの大会のためにあの技を練習してきたとインタビューで答えている。あの技、すなわレスリングのタックルのような入り方をしてから相手を掴み背中を突かせる変形肩車が滑稽に見えたのには理由がある。
 このことを理解するためにはまず柔道の禁止技として「足掴み」というのがある。まず基本として立ち技で相手の帯より下を掴むのは反則。ただしほかの技の過程で足に触れるのはいいというのがあり、20年前は相手の両足を掴みタックルするような技がありこれを禁止したことに始まる。そもそも日本人同士で相手の足を掴むなどやらないというにがあったが国際化する中で、柔道のルールで禁止していないことはなんでもありになってしまい、ひとつひとつ厳密化していったという歴史があのガバ選手の技を生み出し、阿部はその備えがなかったということになる。
 ある意味ルールの隙をつくような「奇襲」であり、階級が上ながら追い込まれていたガバ選手も必死で繰り出した技だったのであろう。筆者からすればあっぱれである。
 そして3つ目の指導を与えなかった主審にも同情をする。自分の判断でメダルの色が決まるなど、その責任はできるだけ放棄したい。柔道であればなおさらである。主審はきっと期待していたと思う。阿部がガバを押し切ることを。しかし阿部の頑張りむなしく、ガバは善戦し、主審は笛を吹き損ねた。それでも阿部が勝つだろうと主審は思っていたに違いない。
 おそらくあの結果に一番ショックを受けていたのは主審ではないだろうかと気の毒になってしまう。もしそうでないのなら、この結果はとても残念なこと、なにか意図があったのではないかと疑われてもしかたのないことだ。

 それだけ柔道において一本勝ち以外の結果というのはそぐわないものだと筆者は考えている。柔道にそぐわない、すなわち「JUDO」なのだと思う。

 さて、ここからが本題なのだが、カミさんがルーレットとか操作した手元が見えないとか食卓に持ち出すくらいに、今のニュース、スポーツ報道は役割をまるではたしていない。これは大いに批判すべきことだと思う。もっと真剣に言葉を尽くして起きていることを報道すべきだ。もちろんニュースサイトにあふれている記事のほとんどが、そうしたライトユーザーの目を引くために的の外れたことを書き連ねている、それで食っているということは理解できるが、正直邪魔だ。

 食卓にルーレットもタックルもいらない。

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