【心の解体新書】最終章~15.泥棒猫と計算可能な心と不確定要素
前回
こんなエピソードがある。この話を聞いて彼女と僕は大笑いをした。しかし文字に起こすと何がそんなに面白いのかを伝える自身は正直に言えばないが、最終章に取り上げる例題としては最近見聞きしたエピソードでは最適ではないかと思う。
当時、二十歳くらいだった彼女はバイト先の上司と不倫関係にあった。そのエピソードを語る前に、彼女はシングルマザーとして二人の子供を育てていること、別れるに至る原因が相手の浮気に端を発していたこと以上に、関東から遠く離れた見知らぬ土地での慣れない生活ですっかり精神が病んでしまっていたことなど、どちらかと言えば辛い話を明るく「こんなこともあったのよ」と話してくれた。
彼女は明るく元気で、昼間は飲食店で働いている。冷房のほとんど聞かない厨房でこの猛暑の中、それはそれはきついだろうけれども、そんな辛さなど感じさせないような人だった。そしてお互いに「オチのない苦労話だけをする人は苦手だ」という話で盛り上がったあとで、彼女的には他にあまり話したことのないエピソードを披露してくれた。
若いころの不倫などというものは、だいたい男性の女房に感づかれて終わるか、男に別の女ができて別れるか、そんなものなのだけれども、それを苦労話として聞かされても「ダメだと思ってやったことを後悔して、ここで披露されても、そうなんだとしか言いようがない」と筆者が話したのはそれなりの経験があるからだ。どういうわけだかそういう相談を周りからよくされるし、だいたい何をアドバイスしても無駄だという話で盛り上がった。
これは実に高度な緊張と緩和、キンカンの法則によって起きた笑いであり、果たして全員が笑えるかと言えば、そうでもないエピソードである。彼女と話をしたのが実はこれが初めてで、その前にとある場所でそれぞれ団体で飲んでいた別グループ同士。なんとなくそのグループに知っている顔がいるような気がして声を掛けたら、近所のなじみの店の新旧店員と常連さんのグループで、見たことはあるけど話したことはないという人の集まりだった。
そこで彼女とは意気投合して別の日に食事でもしようという話になり、このエピソードに至るまで1時間くらい。それまでの会話でお互いの考え方や感じ方を確認しあえるくらいに双方、コミュニケーション能力が高かったとも言えるが、もしこのエピソードをいきなり聞かされても反応に困る。
相手の「ひととなり」がある程度わかる(予測がつく、タイプがわかる)ような会話をしたうえで、彼女もこのエピソードは笑ってもらえるだろうと予測をして話をしてくれたのだろう。
さて、彼女はどのような計算式のもとにこのエピソードで笑ってもらえるという答えを導き出したのだろうか。このエピソードはいわゆるナンセンスに分類される。そして全体としてはタブーである。若いころの失敗というカテゴリーに属する。
人によって道徳に反している行為に対して寛大ではないことがある。筆者がそうであるかどうかは「よく相談を受ける」「苦労話を苦労話としてする人は苦手」という発言と頭の回転の速さ、相手の話の要点を聞き取り、すぐに自分の考えを相手のストライクゾーンに投げるやり取りから、このボールを投げてもちゃんと受け止めてくれると判断したのだろう。
結果、二人は大笑いをしてしばらくそのシチュエーションに類似したエピソードを披露しあって愉しい時を過ごした。そして彼女が離婚した原因が、旦那に女ができたという詳細の話を聞いてさらに大笑いをした。
当時旦那はある店の店長を務めており、二人目を身ごもっていた彼女をほったらかして店のバイトの子に手を出し、それがばれて逆にその女を呼び出してその女性に謝らせたのだという。お腹を大きくした彼女がいったいどんな気持ちでその場に立っていたのか。彼女は笑いを必死にこらえながら怒っていたに違いない。しかしそこまで野暮なことは言わないまでも「どこかでみたことのある風景だと思わなかった?」と尋ねた。
「それな」
そのやりとりだけで大笑いできた。笑ったがそこには一つの悟り、きづきがあった。二十歳そこそこで結婚して知らない土地で相手の両親と同居しながら子供を産んで育てる。今だったら絶対にそんなことは無理だとわかるが、若いうちというのは、なんとかしなきゃと頑張り、自分を壊してしまうこともある。
結果、彼女は子供を連れて家を出た。身ごもの彼女を守ってくれるような人は彼女の家に一人もいなかったからだ。どうしても家を空けなければならず、赤子の面倒を両親に任せたところ、まるで泣き止まず「お前の育て方が悪いから泣き止まないんだ」と言われた時はショックで何も言い返せなかったそうだ。
それを笑って話せるくらいには今はなっているが、傷は傷である。傷を痛いと思うのか、笑って堪えて立ち上がるのか。人生はその選択次第でいかようにも変わる。
筆者は彼女の傷のことを考えて、どうして両親がそのような発言をしたかについて、自分なりの考えを披露した。もし彼女が両親に対して恨みを持っているのであれば、それを少しでもそぎ落とせないかと思ったからだ。詳しくは書かないが、その仮説に対して彼女も同意をしてくれた。人にはそれぞれ限界がある。そのとき両親と彼女の関係はお互いにギリギリの状態にあり、それを旦那が放棄したことが一番の問題であって、両親だけを責めることはできない案件であったことに、彼女も頷いてはくれた。
もちろんそれは解決ではない。過去の見え方を一つ増やしただけである。恨みは消えずとも、カタチは少し変わったのであれば、それ以上は望めない案件である。
これは心のメカニズムを利用した怒りや恨みのコントロール方法と言うことになるが、心のメカニズムを理解しようとも、それをどう生かすかはまた別の話である。知っているからと言ってそれを頼りにして会話や行動の選択をしたところで、うまくいくとは限らない。言葉は万能ではないし、万物流転、心は変化をする。そのとき正しかった選択が明日も正しいとは限らない。このケースの場合は今だから効果がある限定的な利用方法だったのだと思う。彼女が穏やかでいられる今だからこそ、聞き入れてくれると判断した。
原理原則の上に物事は成り立つ。しかし、どんなことにも例外はあるし、予測を上回ることはいくらでも起きうる。平穏な時、緊急な時、人の心の在り方は変化をする。恐怖心は警告であり笑いは緊張状態の解除であるのならば、よく笑う人ほど、日々、緊張を隣り合わせにしている可能性がある。それを楽しめているからこそ、本気で笑える。
怖がりなことを何も恥じることはないし、時に臆病であることは自分だけではなく多くの人を救うことになる。先のネズミの実験でもわかるように、集団の中には警戒心の強い個体と大胆な個体が混じっていたほうが生存率が高く、ネズミはそうやって生き残ってきた。犬は人に付き、猫は家に着くともいう。そして我々人間も動物である以上、生き物と特徴を持つ。それが心なのだと思う。特徴である以上個性は豊かだし、相性もあれば変化もする。
マウスの実験についてはこちらを参照ください。
人が何を考えているのか正確に理解することは不可能であるかもしれないが、だからと言ってわかろうとしないというのは、少々乱暴な気もする。筆者は人類が滅びることなくこの地球に存在し続けるためには、心のメカニズムについて多くの人が興味関心を抱き、相手の心を理解しようとする努力を怠らなければ、それは何かの実を結び後世に大きな花を咲かせるかのような新しい時代を迎えられる=次のステップへとアップデートできるのではないかと期待をしている。
社会のネットワークが高速化、拡大化していく中で言葉は心を携えずともどこへでも届くようになってきている。論理的ではないが魂のこもった言葉というのは確かに強い。それを解析するには心のメカニズムにどのように働きかけて質量やパワーやスピードを得たのかをきめ細かに観察する必要がある。逆に悪用をしようと思えば、相手に思うように恐怖心を植え付けることもできれば、笑ってはいけないようなことも笑いに変えてしまうこともできる。人が幽霊を怖がる理由が「人が人を怖いと思っているから」というのは真理であっても、それでよしと笑っていては、人類は滅びてしまうのかもしれない。
怖がらなくてもいいことを怖がらず、笑ってはいけないことを笑わないようにするためにも、心とは何かを考えることは、それぞれの世代にとって有用なことだと信じている。そして最後にはどんなことにも恐れず、どんなことにもユーモアで乗り越えられるようになれば、人生とは悪くないものではないだろうか。
人の心の動きは計算できる、正しそこには必ず不確定要素が存在する。それはそれぞれの心の抱えている時間=経験であり、記憶は心に大きく影響をする。したがって相手の心を知るためには、今に至る過去の記憶、それに対して対象者がどう理解しているかを見極める必要がある。世界中の人々とそのような関係を築くことは容量的に不可能だ。しかしすぐそばにいる大事な人、大切な人になりうる出会いに対しては、常に相手の心が多面的で立体的であることを意識する必要がある。よりたくさん笑うために。よりたくさん共感し、時に一緒に泣き、怒り、喜べるようになれるのだとしたら、それをしない手はないのではないだろうか。
【心の解体新書】おわり
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