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【老前コラム】アンメルツのかほり

 ある程度年齢になったたのなら、ものごとを言うべきだ。

記憶の中の誰かのコトバ

 60歳にして自分の考えをまとめた本を執筆した人が、近しい人から言われた言葉だと記憶している。作家、村上龍はトーク番組の中で「小説家なんて若いうちから目指すものではない。そんなものは歳がいけば誰でもなれる。それまで何を経験したかが大事になる」といったたぐいのことを言っていたのもよく覚えている。

 機動戦士ガンダムの生みの親、冨田監督は「アニメーションをやりたいのなら、もっと本を読んだり実写の映画を見るべきだ。アニメばかり見ていてもいいアニメ作家にはなれない」といった内容のことを言っていた。

 何かを目指すのなら何をすべきという話は、どうやら違う経験をたくさん積んだ方が有利だという大御所が多い。理屈はわかるが、それって自分たちのテリトリーを守りたいだけなんじゃないかなどと穿った見方をできるのであれば、やりたいことにまっしぐらでいいのだろう。

 でも、僕は違った。

 音楽を作るのにも物語を書くのにも若いころの勢いというのは大事であるのだけれども、多くの人がそれを維持できずに失速する。そうでない人もいるが、形を変え、時代を味方につけながら、或いはねじ伏せながら創作を続けていくというのはなかなかのものである。

「最近、やっと艦隊運用のなんたるかがわかってきたような気がします」とは僕が大好きなスペースオペラ『銀河英雄伝説』に登場する主人公ヤン・ウェンリーの右腕、艦隊運用の名手フィッシャーが残した言葉だが、艦隊運用の名人はそのあとこう続ける。
「この戦いで生き残ったら本でも出してみますかな」

 嗚呼、なんて露骨な死亡フラグなんだろう。

 人は一体全体何をなしえて一生を終えるのか。冨野監督は手塚治虫の下でアニメーターとして頭角を現し、現在に至るといえば聞こえがいいが、本人がやりたかったことはアニメの仕事でもなければまして子供向けにロボットを扱うような作品を作りたい人ではなかった。その時それしかなかったからそうした結果が今に至る。夢や希望が純粋に叶えられることなどなかなかないのかもしれない。

「それがどうした!」
 とヤンの後輩であるアッテンボロー提督あたりなら言うのであろう。この世で最も強い言葉は何かといえば、相手がどんな立派な理屈を並べても「それがどうした!」と言い放てば負けることはないという。伊達と酔狂という言葉が似あう彼らしい発想であるが、僕は結局そうした言葉に感化され『めけめけ』というペンネームを採用するに至った。(プロフィール参照)

 父の口癖は「そうとはかぎらないよ」「そんなことはないよ」と僕の質問、例えばこれってこういうことなの?と聞くとそうやってある意味はぐらかし、ある意味物事の可能性や別の視点を持つことの重要性を教えてくれた。
 そんな父は果たしてどんな夢を見て何を成し遂げたのだろうか?

 老いは残酷にこれ以上彼には何もできないという事実を本人にも、その周りにも突きつける。あとはどう終わるかという本人の意思とは関係ない演出が加わるだけである。父はとくに読書家というわけでもなかったし、好んで何か音楽のレコードをかけることもなかった。ものを作るのは好きだったように思えるが、それも農業よりも工業時代という潮流の中で選択したことであって、僕が作るプラモデルに興味を示したことなど一度もなかった。

 僕はと言えば買ってもらったおもちゃはすぐに分解するし、文房具や工具には人以上に興味を持っていたし、自動車のプラモデルよりもミリタリーミニチュアでジオラマを作るのが好きだった。
 音楽はなんでも聴いた。たぶん小さいころから楽器の聞き分けができていたように思える。ベースやドラムの音が好きだった。母親は仕事柄、オルガンを弾いていたし、好きなレコードを買ってステレオで聞いていた。テレビの歌番組では一緒に歌っていた。僕は母のそういう部分と父のものづくりをする部分を受け継いだと思っていたが、二人とも映画が好きで父はよく子供の僕がねだる映画に付き合ってくれた。

 僕はだれの子供何か。それは明白だ。しかしなぜこうして文章を書くことに愉しみを覚えたのかはある意味不思議だが、それもこれも映画の影響とラジオの影響なのだとは思う。思うがしかし、実際のところ僕には親から受け継いだ才があるのかどうかはまるで分らない。

 先日、行きつけのカラオケ居酒屋で昔話に花が咲いた。ラジオを聴きながら勉強をしたがついつい眠たくなるという話の下りで彼女がこんなことを言った。
「鼻の下にアンメルツをぬって眠気を覚ましてた」
 いっとき会話がそのまま「そうだね。そうだね」と流れていきそうだった所に僕が訂正を促した。
「いや、鼻の下にアンメルツを塗ったら大変なことになるよ。それはメンソレータムでしょう」

 カウンター席は大爆笑。アンメルツを塗らなければならないほど鼻の下を伸ばしていたのかといった馬鹿話で盛り上がる中、何年も忘れたいたあのかほりを思い出した。
 鋳物工場で働いていた父は、家に帰ってくると僕にサロンパスを貼ったりアンメルツを塗る手伝いを要求していた。子供からするとあの臭いは強烈且つじじくさいものであったから、それが自分につくのが嫌だった。

 父親の記憶、アンメルツのかほり

 ふと、ベッドに横たわる父親にアンメルツを塗ったら元気に起き上がるかもしれないという考えが浮かんで、笑った。

 すっかり忘れてしまった記憶。こうしたものを思い出すためにも僕は毎日できるだけ誰かと話をしてきたのだろう。そうした積み重ねの上に僕の音楽や物語があり、そしてこうした場でみなさんに読んでいただける機会を得ているのだと思う。

 そう考えると、本を読むより大事なことは、確かにあるのだと思うし、そうしたことを見つけるのには今の僕の年齢くらいがちょうどいいのかもしれない。思い出せなくなる前に、懐かしいと笑えるうちに僕はたくさんの言葉を紡ぎ、この世に残そう。

 ビュコック提督のような生きざまは僕にはできないかもしれないけれども、こうした人物を物語で描くことならできるかもしれない。

 老いてなお気骨ある者は……

 このセリフはビュコックと戦った帝国軍が彼を賞した言葉でありますが、もちろん元ネタはナイチンゲールです。

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