【老前コラム】老いるのはヒトだけ
『老いてなお、気骨ある者』であるために必要なことは、より老いについて理解することなのかもしれない。
このコラムを初めてから筆者は日常生活における観察眼=カメラを新たにひとつ追加した。筆者の周りには実に豊富なサンプルが存在する。
すでにベッドから起き上がることができなくなった父が最も身近でもっとも高齢であり、それは老後というよりは命が尽きる前の準備段階であると言える。筆者の記憶の中に雑多な父親に対する「老いたな」と思った事象は同時に自分や自分の周りの人にも当てはまる。
行きつけの居酒屋には介護を生業としている飲み仲間がいる。彼女に父親がいよいよトイレに行けなくなったという話をしたとき、彼女は力強く「それはもう、諦めるしかないよ」と言い放った。
いささか雑な話だなと思ったのだが、彼女が知る限り、男性がトイレを一度でもしくじるとほとんどの場合、それで心が折れてしまうという。そしてそれをきっかけに老いは加速度を増し、自分で何かをするということに対して消極的になるのだそうだ。
逆に女性の場合は一度の失敗くらいでは心は折れずに何度もチャレンジをするのだという。
なるほど女性の平均年齢の高さはそういうところにあるのかと感心し、そして同時に老いと心の関係について考えずにはいられなかった。
それはまさしくこのコラムのテーマである「老いてなお」の部分に当たる。
さて、筆者が感じる「老い」というのは血縁ほど近しくなくてもその人の行動や言動に見て取ることができる。もちろんそれがその人の個性であり、老いを表すものではないこともある。万物に当てはまる見解ではないがだからこそ、老いる前に知っておくべきことなのだと考える。
そもそも人はなぜ老いるのかということについて、多くの人は無関心である。逆に言えば筆者は幼少のころから老いについて子供っぽい疑問を持っていた。
それは幼いころから読み聞かせられた童話や昔話に登場する「おじいさんとおばあさんがいました」という設定である。西洋の寓話では森の奥に年寄りに一人暮らしをさせて、幼い子供を使いに出す母親が登場するポピュラーな物語が存在する。
或いはアルプスの山に暮らす偏屈なおんじでもいい。
なぜ年寄りが一人もしくは夫婦で人里離れた場所に暮らしているのだろうか。この疑問は赤い頭巾をかぶった少女が教えてくれた。中世のヨーロッパは非常に貧しい生活を強いられていた。森の中は常に危険であり、住みやすい開けた場所は生存競争が激しい。
だから子供も年寄りも邪魔な存在だったことが推測される。
この中でルソーは次のように語っている。
筆者は読んだことはないのだが、「子供の発見」という歴史的な事象を認知したのはごく最近のこと、ここ15年くらいの話なのだが、このときに同時に年寄りが物語の中でどうして孤独に暮らしているのかということも理解できた。
さて、生物学的なアプローチを「老い」について調べていくと興味深いことがわかってきた。それはほとんどの動物が生殖機能が低下したと同時にその命を全うする。日本人になじみのある所では鮭は川を上り産卵を終えるとそこで命尽きる。
昆虫の中には卵から子供が羽化すると自らの身を子供たちに差し出して命を終える種もいる。
哺乳類についていえば自然界の哺乳類はメスが閉経すると同時に寿命がくる。しかしペットとして飼われていたり、家畜として飼育されている動物はそれよりも寿命が長い。
特に人類の場合、生殖能力が失われてからの寿命が極端に長いことは誰もが知ることだと思うが生物として特殊であることはあまり認識されていた二のではないだろうか。
そこには人類が進化過程――つまり生存競争の中で身に着けた特殊な能力こそ「老い」であることが考えられる。この世界に不要な機能は存在しない。「老い」にはきちんとした存在理由があり、それゆえに人類は発展してきたのである。
まず重要なことは人が高度な知能を持ち、それを記憶し、記録し、伝達することができることが、「老い」という機能によって人の集団をより強固な存在にしたのではないだろうか。
働き盛りは強いパワーを持つと同時のそのためのエネルギーを多く必要とする。しかし人は老いると過剰なエネルギーを摂取せずとも生きられるようになる。もちろんパワーは使えない。しかし知恵を集団に授けることができる。それは子育てや狩猟、農耕の技術の継承や改良、星を見て収穫の時期や天候を見て豊漁を予測するなど、長く生きることで身につ行けた知恵は働き手のパワーを最大限に生かし、子育ての成功率を上げることができる。
そしてさらにここに「心」というパラメーターを設置するとさらに重要なことがわかってくる。若く逞しい者、美しい者は栄達のため、それは一族の繁栄と自己実現のために心血を注ぐ。そこには知識の独占が必要となる。しかし老いてしまうと知識はあってもパワーが足りず、子を産めずとも子を育てる、或いは病の予防、食生活の改善、衛生管理など様々な知恵を提供することで若者に自己の存在を許容してもらうという取引が成立する。
しかしもしもここに若者と同じような野心があれば、それを許さないだろう。人は老いによって「心」も変化し、自己実現から共栄、共同体の組織的規範の中心となっていく。
すなわち物語によく出てくる仙人、長老、村のようなワイズマンとは人類が獲得した生存競争を勝ち残るための変化形態であり、老いが若さに劣るということは決してないと言えるのである。
でもだからこそ、老いにはよい準備が必要だともいえる。年寄りが偉く見えるのは、だいたいの年寄りがワイズマンであり、そうでない年寄りは『こぶとりじいさん』や『はなさかじいさん』、『舌切り雀』に登場する「悪い年寄り」として批判さる。
ここに登場する「悪い年寄り」の心の特徴は一律に強欲で自己実現に固執している。自分よりも他人が幸せであることが許せない心の持ち主である。若いころにはそういう競争意欲はある種の成功を収める原動力にもなるのだが、年老いてからアップデートできないとろくなめにあわないという物語の構造は実に皮肉が聞いていて痛快だと思う。
そう思える心こそが、人類が獲得した『幸せの概念が加齢によって変化する老いという事象』なのではないか。
つまり「老い」そのものは実は人間的に重要な変化なのである。しかし失敗することもある。そうならないためにも「老前」にすべきことは多い。若いころはついつい「数学の方程式など、食うためにはなんの役にも立たない」と学問をないがしろにしがちである。それはそれで間違った考えではないのかもしれない。
しかし老いてなおそうであることは、決して老後を豊かにはしないのではいだろうか。
老いてなお、気骨であるためには、あらゆることに寛大で敬意を払い、注意深く物事の核心を見つめる胆力が必要ではないか。そしてそれに見合った落ち着きを獲得することこそ「老い」という身体的変化と心理的変化なのだとしたら、それを有効に活用しない手はない。