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【老前コラム】おいおい老いる僕のために
「墓はどうしようか」と弟が切り出した。
八月初旬、90歳を越えていよいよままならなくなってきた父の面倒を見ている妹からメールが届く。
「お父さんのこと、そろそろどうするか家族で相談しておいてくださいと主治医に言われました」
詳しく聞いてみると誤嚥性肺炎を起こし、体調を崩したのだという。猛暑の続く中、体から熱が取れずに体力が著しく低下したようだ。たった二つ三つの米粒が父の体に大きな変化を起こした。どんなに気を付けていようがそれを完全に防ぐことは難しい。
妹はよくやってくれていたし、父も妹のいうことを聞き、ずっと穏やかな日々が続いていたが、会うたびに小さくなっていく父の姿は普段一緒に生活をしていない僕にとっては正直受け入れがたい。それでも10年前に母を癌で失った経験や父方、母方の祖父母の週末を子供の頃に見てきた僕にとっては目を覆いたくなるということもない。
祖父は元気が過ぎて施設のベッドに拘束されて眠っていた。そうはなっていない父には、おそらくそうならないぞという覚悟があって今があるのではないかと思うほどによく食べ、よく眠り、よく話し、できることは自分でなんでもやってこれたのだと思う。
今、父はベッドから出ることができなくなっている。8月までは自分でトイレにいっていたが、大好きな米粒を自分でどうすることもできなくなっているというのは、なんとも皮肉なのか、それとも昔々であればそれで死ねるのなら本望ということなのか。そんな答えに意味などないと分かっていながら、病に倒れた母が、死を目の前にして屈することなくそのなかで自分ができること、やりたい人、会いたい人と過ごした数か月は人間の尊厳そのものが死神と向かい合って「その時」が来るまでのできる限りのこと、それが戦いであったのかどうかは知る由もないが、そう、あのころ僕には死神が見えていたのだと思う。
人は老いるし、病にもかかる。そして最後は死を向か入れなければならない。天命を全うする形は人それぞれであるが、どれがいいということもないのだなと思いつつも、やはり見送るものとしてはやることをやらなければならない。
母の病、癌が再発したときのことを今でもよく覚えている。あまりのことに言葉を失うとは、なるほど小説の表現としてはありふれているが、こういうことなのかと変に達観していたのを覚えている。
「早くて余命一か月」
その言葉の重みは到底背負うことのできないような巨大な岩を前にして途方に暮れるようなものだった。でも前に進まなければならない。すぐに母と自分の名義だったものをすべて父に変更しなければならないと、母は僕を指名した。長男であるからなのか、しかしそれ以上に母は僕と一緒に仕事がしたかったのではないかと、少しうれしくもあった。
家を出て、結婚をしてからこういう機会は実家に帰ったときに料理を一緒に作るくらいしかなかった。一緒に暮らしている頃はよく年賀状を作るのを手伝った。母の交友はあきれるくらいに広くて深い。ひとつひとつ丁寧にあいさつ文を添えて出す。それをいかに効率よくできるか。当時『プリントごっこ』やワープロを駆使し、母の年賀状作りを手伝った。
父とはそういうことがない。ただ彼の昔話に耳を傾けるだけだ。もどかしさもあるけれども、それはそれで父親とは母親とは、そういうものなのかもしれないと前向きに諦める。
容態が悪くなった時の対応や本人の希望の確認――どう週末を迎えるかについては主治医がしっかりと聞き出してくれていたので事務的な処理をするかのように、その内容を確認して誰もそれに意義を唱えなかった。父ならそうするだろう。施設にはいかず、住み慣れたこの場所で最後まで過ごしたいという希望は何よりも優先すべきとだと兄弟の中ではっきりしていた。
墓に関しても先に行った母と同じところというのはわかりきったことではあったが、いわゆる「お墓」というものはなく納骨堂に収めてもらっているのでそこでの手続きはどうなっていただろうかと、そういう話だった。
すべての道は母が決めていてくれていたような気もする。母が亡くなったのは8月6日。7月15日に一時退院をし、楽しく家族で過ごしたその夜にトイレで倒れてすぐに入院。それまで病人とは思えなかった母がすっかり弱ってしまってるのを見るのは辛かったが、これが老いるということ、病に倒れたのではなく、病を道ずれに自分の天命を全うした人の生きざまであり死にざまなのだと感心した。息を引き取るタイミングもみんなが集まりやすく負担の無い日を決めていたのではないかと呆れたものだった。
だから父はまだ逝かないのだろう。母が今じゃないと父を追い返したのだと思う。今の父は、母に怒られた時のようにおとなしくしている。それが分かるから泣けてくる。
病という一対一の格闘と戦って散った母、老いというゴールの見えない長距離競技に挑む父。それをセコンドと強いて、コーチとして寄り添ってきた妹には感謝しかないが、兄弟三人、孫二人を見せることができた自分と独身貴族を決めて実家にすぐ寄れるところで一人暮らしをしている弟、すねかじりのつけを払い続ける妹。何もかもが歯車としてあの広くも狭くもないマンションの一室でアナログな音を立てながら最後の瞬間まで動き続ける。
あまりにも大きな存在であった母の死は、父母両家を有機的につなぎとめる要の役を見事に果たし、今は静かに消滅しようとしている。親戚づきあいは急速的に疎遠になっているが、それは母がいなくなったことだけではなく、それぞれにみんな歳をとり、すべてがままならなくなっている。
今年の初め、父方の兄弟、叔母が亡くなったのを機に、叔父叔母の存在は希薄になり、それぞれを気遣う余裕もなくなってきているのが分かる。老いるとはそういうことなのだろう。長男である父、その長男である僕次第ではそれぞれの家をつなぎ続けることも不可能ではないし、やるべきなのだろうが、果たして今の生活のまま、それが可能であるかどうかを考えたとき、手本となる母のように自分はできないのだと勝手ながら諦めてしまっている。
血のつながりよりも地のつながり。僕は僕で、そこは母のように両立はできないと最初から今いる場所での自分のやれることをやるしかないと思っている。思っているが歯がゆさはぬぐえない。
これまでは死生観について着目をしてきたが、いよいよ老いについても考えをまとめるときが来たのだと思う。当たり前に父の次には自分の番である。父も母もぎりぎりまで老いを感じさせない人たちだった。孫と遊ぶ姿はどこか輝いていたし、晩年は時間の許す限りいろいろな場所に旅に出ていた。穏やかな時間をあのように過ごせるものかどうか、僕にはまるで自信がないというか、根拠が見当たらない。
ただ知っていることはある。それは自分の知るものがどんどん失われていく寂しさに耐えなければならないということ、それを受け入れ、穏やかでいられる何かを掴まなければならないということだ。
これからここで、そうした老いにどう向き合いどう迎えるのかを書き連ねていきたいと思う。