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物書きから見た『兵庫県知事選挙』

 オールドメディア対SNSといった話題の中で、その中心になっているのが令和六年十一月十七日に行われた兵庫県知事選挙である。
 この一連の事象について物書きとしての筆者の視点から見た場合にどう見えるのか、ここのまとめておきたいと思う。

事実その1 事件の発端となった『告発文』

令和六年三月二十七日、記者会見において当時知事であった斎藤元彦知事に関する『怪文章』がメディア等に流れ、これは兵庫県西播磨県民局長による「うその告発」であるとして、内部調査をすることが発表された。
同年四月一日、内部告発として県民局長が報道機関に反論文を配布し、「⑤本来なら保護権益が働く公益通報制度を活用すればよかったのですが、自浄作用が期待できない今の兵庫県では当局内部にある機関は信用出来ません。」とあり、元県民局長は3月の告発方法では公益通報者保護法に基づく保護権益は享受できないものと考えていたようである。
四月四日元県民局長は実名で改めて、県庁内の公益通報窓口に内部告発文書を提出。
これにより、先に配布した文章を公益通報とみなすか議論になる。

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※公益通報、内部告発についてはこちらを参照(一例です)

物書きの視点1

 このような文章が正当性のある告発文章であるのか、或いは恣意的に知事やその勢力に対する誹謗であるのか。文章の中身も気になるところではあるが、この経緯にすでに疑問が浮上する。
 ひとつは順序である。正当性があり、公益通報として十分に説明可能、立証可能な内容であるのならばなぜ最初に公益通報として報道機関に文章を送らなかったのか。
 もし仮に3月の文章と4月の文章が同一性の極めて高い内容であるとするのであれば、文章内の事実の信ぴょう性をおいても、Q&A方式の文体や、ところどころ見受けられる文体の変化、同一人物とは思えない統一性に欠ける文章になってしまった理由は何かが気になる。
 告発者である県民局長は、なぜこのタイミングでこの手順でこの文体で告発を行ったのか。論理的な検証をすることと、文章の信ぴょう性と公益性を図る上では重要だと考える。
 動機、思考、思想、行動原理の一貫性のあるものであるのか。また到底一人では作成できない内容につき、現時点で「私が協力しました」と名乗り出る者がいないというのも気になる点だ。
 ただし、これについては一部県議員からは文章の内容が事実あったというSNS他の発信も見受けられる。そして同時に関係者からはそのような事実はなかったという証言があり、端的にどちらかが嘘を言っているとするのであれば、嘘を言っている側の動機、思考、思想、行動原理の一貫性を測ることで、何が事実であり、事実に対してどういう意図でそれが捻じ曲げられたのかを知ることができるだろう。
 そしてそこには「利益を得る者」または「損害を被る者」という視点は必須であると思われる。

物書きの視点2

 公益通報制度をどのように運用すべきなのか。告発者自信が「本来なら保護権益が働く公益通報制度を活用すればよかったのですが、自浄作用が期待できない今の兵庫県では当局内部にある機関は信用出来ません」としているが、制度としては兵庫県に限らず、告発者を保護する観点から制度運用の見直しは必要だろう。尚、兵庫県はすでにこれに対応した模様。

 性善説でこれらを考えた場合、果たして県民局長は命を落とす必要があったのだろうか。百条委員会も設置され、公益に寄与すべく動いていたのであれば、すべてはいい方向に行っていたように思えるが、ここで公用パソコンに保存されていた私的文章の存在が問題となる。
 彼はプライバシーの保護を求めていたのだが、公益のために告発をした人間がとる行動としては、一貫性に欠けるように感じられる。
 

事実その2 告発者の自死

五月七日県は内部調査の結果、記載された事案で核心的な部分が事実ではなく知事や職員に対する誹謗中傷であり不正行為であると判断、その他にも複数の不正行為が確認されたとして、元西播磨県民局長を停職3ヵ月の懲戒処分とした。
同月齋藤知事は第三者委員会の設置による再調査を行うことを表明
六月中旬に、百条委員会の設置議案を賛成多数で可決
七月七日夜、十九日日の第3回百条委員会で証言予定であった元西播磨県民局長が死亡しているのが発見された
自殺とみられる

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物書きの視点3

 この間、テレビ新聞等の報道は過熱していく。パワハラの職員アンケートでは、告発文にある七つの疑義について無記名、複数回答可能な形でアンケートが実施され、その結果アンケートに回答した四割になんらかのパワハラを見聞きしたという報道がなされ、おねだり、我がまま、恫喝など様々な噂が垂れ流されることになる。
 この時点での筆者の感想はそれが事実であるのならば相当悪質だという感じであったし、自殺者が出たとなっては一時的に思考は傾いた。
 しかし冷静に考えるといくつかの疑問点がある。とくにアンケートがどのように実施されたのかについて詳しく報道するメディアがないこと、またアンケートによる四割という数字に対して、実際に証拠となるような録音物や被害者の証言も見受けられなかった。
 またすべてのマスコミの論調が偏っていることにもいささか引っかかりがあったものの、報道で見る齋藤知事の記者とのやりとりは言葉のキャッチボールができていない印象が強く、先の公益通報にあたるのであるかどうかについても納得性の高い法的解釈は見受けられなかった。
 多くの疑問を残したまま、議会は百条委員会の途中で知事に対して不信任決議可決案を全会一致で可決、知事は失職を選び再出馬という流れになるのだが、このあたりにも不透明さとそれぞれの行動原理、事実認定、法的解釈についてもやもやするものがあり、ここでやっとネットで情報のファクトチャックを始めるようになった。
 物書きとはまず、事実確認とそこに主体的にかかわっている人物の人となり、行動原理を考えたとき、何が起きていたのか、誰が何をやろうして、どういう結果になったかを考える。
 もっとも重要なことは文章である。文章として残したものには必ず意味がある。事実だけを羅列したもの、結論を急ぎ、物事をひとつの側面からしかみていないもの、そこにどんな違和感があるのかを調べ、考察する。
 最初に取り掛かったのはアンケートの実態だ。百条委員会はこれをもとに事実確認を行っている。結果的に知事が認めたいくつかの高圧的な態度についてはそれを受けた人間がパワハラだと感じうるものだろうということ。しかし知事はそれを認め、謝罪をしている。

ファクトチェック

 筆者にとってもっとも有用であったのは実際に当事者を招いてインタビューをしたReHacQ−リハック−というyoutube動画と、賢者の人事という人事コンサルタントの動画だった。
 前者はインタビューの中で見える当事者の表情、話し方、言動の一貫性などを見るのに非常に有用であった。

 後者はアンケートにいかに不備であったこと、また告発文の記載内容について筆者と同じような考察がなされていたことであった。特にアンケートの全数チェックの動画はいかにマスメディアが報じた四割という数字の信ぴょう性が低いということを指摘し、今回の一連の騒動にはマスメディアが報じていない側面があるだろうという立場に筆者が身を置くきっかけになった。

事実その3 知事再選と選挙の在り方

NHKから国民を守る党党首の立花孝志は、一連の県議や県議会やメディアの動きに疑問を覚え、『メディアぐるみでの斎藤イジメ』を指摘。
2024年兵庫県知事選挙への立候補を表明。
立花は「知事が辞めなければいけないほどの違法行為は見つかっていない。なのに県議会が全会一致で知事を辞めさせた」「自分の当選は考えていない」と述べ、斎藤を選挙運動により合法的に支援することが出馬理由であると説明。
立花は、県議らから情報提供を受けたという、10月25日に秘密会として開催された百条委員会から流出した音声データを、街頭演説で紹介し、SNSへ投稿し拡散するなどの選挙活動を行った。
十一月十七日 齋藤氏再選

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物書きの視点4

 齋藤知事再選については立花氏のSNSと政見放送を使ったメディア批判と県議会批判、特に百条委員会の取り組みがいかに齋藤知事に対して公正さが欠けていたかという働きかけ、選挙民にとどまらず、SNSを普段から活用している既存メディアに対して批判的な人々の関心を得た。
 これにより、一県の一知事におけるパワハラ疑惑という見出しがオールドメディア対SNSという見出しに変化する。
 兵庫県知事選挙は、既存の大手メディアに対する不信が表面化した大きな事件として今後名を遺すのだろうと思う。
 さらに選挙後に齋藤陣営に公職選挙法違反の可能性があるとして、このnoteに書かれていた(当時から改変されている)記事が話題になっているが、筆者はそうしたことはすべて専門家と担当部署(警察)に任せておけばいいと思っている。
 物書きから言わせれば人はずるをし、必要とあれば嘘をつく。票が欲しければなんでもする。だから法律があるのであって、故意だろうが不作為だろうが間違いがあれば正せばいいと思う。
 どれだけよい政策を実施していようが、それは別の評価であるべきであるが、同時に法の精神として、どう運用すべきかについて考えるべきことだと思う。つまり違反行為によって著しく公益を損なうような結果であったかどうかは今一度、考える必要がある。
 法治国家とは、法で縛るのではなく、法によって争いを解決することを民主的に運用する国家のことをいう。民主的とは究極、多数決という数の力での解決に任せてしまう程度の雑な国家体制のことを指す。
 選挙とは勝った負けたで誰かが幸せになり、誰かが不幸になるものであるのなら、こんな理不尽な話はないのだ。齋藤知事は勝ったとはいえ、全県民の信認を得たわけではない。それを踏まえて彼がどのように県政を運営していくのか、それは県民が責任をもって監視すべき話であり、選挙法に違反したかどうかなど、主題ではないのだと考える。

 さて、物書きの視点としてはそのような社会論は舞台としての興味はあるが、背景程度のものでしかない。問題は告発をした元県民局長が自死したとされている事実が、まだ完全に断定されていないということ。
 筆者は考える。彼は本当にあの文章をあのタイミングで世に出すつもりだったのであろうか。あれで齋藤知事の悪政を止めなければならないという使命感は達成されたのであろうか。
 百条委員会で、いかに自分の意見が正しく、公益性のある告発をしたのだと証明する機会を、プライベート情報が露見することを畏れて自死するのだろうか。
 不可解である。筆者がこれを創作物として書くのであれば、こうはならない。ならないということは理屈が通らず、行動原理の一貫性が担保されていない不完全な人物設計ということになる。
 人は言うのかもしれない。県民局長の心の中などわかるはずがないと。しかしながら、物書きはそれを架空の人物を設計し、AIのように動かすことができなければ、そもそも筋の通ったシナリオを書くことなどできない。

 人が死に至るにはそれなりの理由がある。彼が残した言葉は、本当にあれだけだったのだろうか。いや、彼が残した言葉にはすでにそれが隠されていたのかもしれない。もう一度よく読んで見て欲しい。
 きっと彼もそれを望んでいるのではないだろうか。

 実はこの一連の事件に関わったほとんどの人が自分の思惑とは違う方向に事態が進んでいったのではないかと思う。物書きであれば、それを題材としてこの物語を描くだろう。
 齋藤知事は元県民局長の所業を許すことはできなかっただろうが、自死にいたったことについて、彼なりに思うところはあるのだろう。彼は決してそれを口にしない。
 元県民局長が仮に自らの決断で自死を選んだのだとしたら、彼もその袋小路に迷い込むとは思っていなかったのだろう。そこでいったい何がおきたのだろうか。
 百条委員会、そして議会側も齋藤氏が再選することはないだろうと考えていたに違いない。
 マスコミも自分たちの報道に偏向があり、SNSに負けたのだとは認めたくないだろう。
 立花氏はどうであるのか。彼は激しくまわりをかき回しているように見えるが、はたしてそれだけなのだろうか。PR会社の公職選挙法違反の疑義については想定外だったのではないだろうか。
 そのPR会社の代表もまた、こんなはずではなかったのだろう。
 実は誰一人として望んでいない展開になっている。しかし、果たしてそうなのだろうか。もしかしたらこのシナリオには最後に得をする何某が存在し、すでに次の展開も決まっているのだろうか。

 物書きは気楽でいい。あらゆる可能性の中から、面白いことだけを抽出して書き上げればいいのだ。ノンフィクション以上に、それが真実という的をたまに射ることもあるのかもしれないが、そこには興味がない。

 果たして、元県民局長の死を悼んでいるのは誰なのだろうか?
 どちらの側にも、それを感じられないと思うのは筆者だけだろうか。
 そしてそれが自死の本当の理由ということにならなければいいと思っている。

 それではあまりにも、寂しいではないか。

 最後に、ここに記載したことに誤りがある可能性もあります。事実が確認できた場合、訂正します。

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