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矛盾と向き合う方法~だが問題は傘がない
矛盾と向き合ったことはありますか?
僕はといえば、どうであったか熟考するほどにこれといった記憶はない。記憶はないが、そんなはずもないと思う。
なぜなら矛盾は簡単に発生し、そしておよそ解決するものだと知っているからだ。
なぜ思い出せないことを知っているかと言えば、忘れてしまえばそれはひとつの解決であろうと考えるからだ。
矛盾とは
矛盾とは、互いに排他的な2つの主張が同時に真であるとされる状況で、言い換えれば、両方の主張が同時に成り立つことが論理的に不可能な場合に発生するとされている。
矛盾には種類があり、論理的、実践的、概念的矛盾などがある。その解決方法も一方の主張を否定する、主張の解釈を変える、新しい情報を取り入れるなどがある。
最強の矛と最強の盾
言葉の成り立ちとしてのこの相反する存在は、パラメーター(新しい情報)を加えることで解決する。
まず矛とは何をするものなのか。それは攻撃であり、相手を打ち倒す武器である。盾は身を守り相手の攻撃を限りなく無効化するものである。
つまるところそれら武具は必ずそれを扱う攻撃者と防御者が存在する。しかも実践ではそれらは同時に存在する。つまり攻撃だけすることもなく、また防御だけすることもない。
つまりこの矛と盾を比べること自体が実践においては無意味であり、それこそが矛盾を産んでいる。
正しい矛盾の扱い方
矛盾とは論理的思考をする際に避けるべき議論や思考のエラーを避けるためのものである。つまり矛盾が起きないように思考し、議論する。もし矛盾が起きたのならそれを回避する。したがって矛盾は発生しては避けられるので、僕の記憶には残らない。
それが残るとすれば解決できない矛盾があるということなのだが……。
感情としてこうしたいという行為がある。しかしその行為は大きなリスクが存在する。だからそれをやらない。やりたいののやらないのは矛盾である。しかしそんなことはいくらでもあるし、なんなら毎日発生している。人はそれを葛藤と呼ぶ。
矛盾と葛藤
矛盾は論理的な相反であるのであれば、葛藤は心理的、感情的、倫理的な相反と言えるだろう。実は人間にとっては矛盾は大きな問題ではなく、むしろ葛藤の方が社会的生き物である我々人類にとっては撲滅することのできない病のようなものであり、それはストレスという言葉で広く共有されている。
逆に言えば矛盾によってストレスを感じることはない。思考が停止するか、逆にブレイクスルーがあるか、そして忘れるかのどれかである。
もちろん矛盾を強要されればそれは理不尽ということになる。理不尽はストレスであり、反発を生む。もしくは心を破壊される。つまりハラスメントということになる。
兵庫県県知事選挙前後の矛盾
昨今珍しく、矛盾を目の当たりにした。昨年行われた兵庫県知事の失職による選挙において、県民の代表である議会の不信任決議案によって失職した知事が、紆余曲折あって再選を果たしてしまった事例だ。
知事は県民によって再選した。しかし彼を失職たらしめたのは、同県の各地域を代表する代議士が構成する議会である。
さて民意とはいったい何を示しているのだろうか。これは大いなる矛盾に思える。思えるがそうは考えない。
県政のチェックとバランス
県政は県民が選んだ知事と県の各地域を代表する代議士による議会が相互に協力、けん制をしあうように仕組みが作られている。
知事は予算案、条例案を提出し、議会にはかる。議会は場合によって知事に不信任決議をすることができる。知事は議会を解散することができる。互いに互いを殺す手段をもっているものが対等に議論できる仕組みになっている。
これはある意味矛盾の話に等しい。つまり最強の矛(知事)と最強の盾(議会)の関係だ。
従ってこの二つが対立したとき、矛を扱う者の技量と盾を扱う者の技量とで、けん制のバランスは個性が生まれる。多くの場合矛盾を含みながら県政は滞ることなく進んでいくのである。
矛盾の追及
僕は矛盾は存在し、それは回避すべき存在であると考えている。
前述のとおり矛盾してしまうのは思考方法に問題があるからである。兵庫県における選挙の結果を矛盾だとして、そこには不正があったに違いないと考えるのは思考停止に他ならない。
最強の矛と最強の盾がぶつかったとき、どうなるかはわからないのに、矛が勝ったのは不正があったからだという主張は理解できるが、県知事選挙に投票に行くような人たちが、そのような思考停止をするような人々であろうはずがないという推論の方が正しくはないだろうか。
正しいとは語弊があるかもしれない。正確を期して言えばより物事を考える人たちの行動の結果がこの選挙の結果である。
議会が下した不信任決議は民意と言える。しかしその一方で別の民意が県知事に下された。なんら矛盾はない。議会を構成する議員たちは現在の知事の県政に不満のある県民の代表であり、県知事を当選させた民意は、そうではない県民の民意である。これは正しい。
この矛盾は正しいにも関わらず、そこに不正があったのではないかという追及は的を射てはいない。正論であれば誹謗も中傷も必要ないだろう。しかし、その誹謗中傷はむしろ現県知事を良しとする側から行われ、その結果命を亡くした人がいるという議論になっているが、それはまさに矛盾である。
なぜなら最初に誹謗中傷を受けたのは誰であったのか。その原因となった怪文書とそれを作成した人物のその後の顛末について、果たして論理的な議論がしっかりとされているのか甚だ疑問である。
矛盾と向き合う方法
矛盾とは事実と実効性に視点を置くだけで多くの場合解決できる。矛盾してしまう思考方法に問題があるのだ。最強の矛も盾も道具でしかない。それを扱う者の能力によって優劣、勝敗は決する。
そこに不正があったのではと疑問を持つまではいい。ではそこに事実を積み重ね、最終的に司法に結論を委ねる他にないし、選挙もまたひとつの解決方法であったはずである。
SNSを規制すべきという議論まで飛躍している昨今の風潮には辟易しているのだが、言葉は暴力になりうることを鑑みれば、何らかの公平公正な手段をとるべきだろう。
もっとも有効なのはAIによる真偽の判定であったり、匿名による選挙関連のSNS発信はある程度規制するべきだろう。
選挙は民意を問う者であり、そこにSNSが関与することで民意が捻じ曲げられているという問題があるとするのであれば、言論の自由と選挙の矛盾にどう向き合うかを議論すべき出るが、その為には思考方法を変える必要がある。
そもそもこれまでの選挙は正しかったのか、という問いである。SNSが話題になる前の選挙と今の選挙。果たして民意が広く反映されるのはどちらなのであろうか。
SNSは選挙に足を運ぶ人よりも若年層であることは想像できると思う。より若い人の意見が反映されるのは、今までの選挙の在り方なのか、そうでないのか。そんな視点を持つ必要があるのではないだろうか。
矛盾と向き合うとき、盾と矛だけに気を取られていては解決などできようはずもない。
だが問題は傘がない
君に会いに行かなくちゃと思うけど、問題は今日の雨、傘がないと、そんな歌がある。
いや、傘、買ってでも借りてでも行けばいいじゃん。なんならずぶ濡れでも行きたきゃいいじゃん。
矛盾を解決する方法は、論理的にはどうということのないシンプルな行動であることが多い。しかしここに感情がついてこないからこそ、この歌は人の心に刺さるのだと思う。
誹謗中傷という雨の中、傘がない。
あなたならどうする。
それでも会いにいきますか。
彼はそうした。
それは尊ぶべきかなと、僕は思うのです。