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【ネタバレあり映画考察まとめ】『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』ミュージカルパートをどう観ればいいのか

 最初にこちらを読んでいただけると、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』について筆者がどう見たのかをより深く楽しんでいただけます。

 映画鑑賞ののち、僕の信頼する映画キューレーターの方々の動画を見て答え合わせ。それらと自分の考えと比較してより深くこの映画を理解したいと思えるくらい深みのある映画でした。

期待値と評価の考察 大島育宙氏が酷評の理由について共感しました。

 そもそも2は作られる必要があったのかというのがこの作品のもっとも考えるべき点だと思います。これは他の考察動画でも見られるのですが「反省文のような映画」と感じてしまう人は少なくなかったのではないでしょうか。逆に多くの人が「ジョーカー2」に期待していたのは狂気の二人がゴッザムの街を徹底的に破壊するような展開だったのでしょうね。

このシーンは結局なかったのだけど、これを期待した人は多かったのだろう

 しかし、この物語にそれを止められる唯一の存在であるバットマンは存在しない。前作でブルース・ウェインは登場しましたがまだ少年でしたし、時間が経過してもまだバットマンになれるほど成長はしていませんからね。

 なぜ反省文のようになってしまったかについては、最後にもう一度ふれますが、前作やその前のダークナイトのジョーカーが引き起こした事件は確かに存在します。
 映画ファンとしては本当にそういうのはやめて欲しい。


 前作が大好物だったという小堺一機市の芸人から見たジョーカーというのも大変興味深かった(これはネタバレなしです)

 芸人にとってアーサー・フレックという存在はどう見えるのか。アーサーはコメディアンとして成功することを望んでいましたがそれは叶わず、人を笑わせることとはまったく違う存在として世間から注目されます。
 小堺氏が先輩から言われたという言葉「一番なりたいものにはなれないぞ」というのは確かに芸人あるあるなのでしょうね。


 アメコミ侍の視点も面白い。アメコミ好きは一つの情報からいろんな可能性を妄想する。それが楽しい。一般人とは見るところが違うのですが、筆者の趣味嗜好性はこちらよりです。

 前作ではのちにバットマンになるブルース・ウェインの両親がジョーカー現象によって犠牲になっています。ジョーカーとバットマンが直接対決するにはアーサー・フレックとの年齢差を考えると釣り合いません。アーサーはジョーカーを生み出す引き金であって、ジョーカーではない可能性を考えてしまうのがアメコミ好きです。
 今回は裁判シーンではハービー・デント検事が登場している。バットマンを知っている人であれば「おー!」となるところ。ハービー・デントは真面目な検事だったが顔の左半分に傷をつけられ、二つの人格を持つようになり、人気のヴィラン『トゥーフェイス』となる。

【バットマン・フォーエヴァー】(1995年)リドラー(ジム・キャリー)とトゥーフェイス(トミー・リー・ジョーンズ)

 アメコミ侍はアーサー・フレックを刑務所で刺し殺した受刑囚がリーによって第2のジョーカーに仕立て上げられる可能性を指摘しているが、アメコミ的で面白い。

 そして筆者がもっとも参考になったのが「町山智浩とDr.マクガイヤーの『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』復習回」の考察動画だ。

 まず彼らはこの作品の構造的な創意工夫について非常にわかりやすい考察をしている。本作は冒頭のアニメシーンに凝縮されていることを指摘。ジョーカーが劇場に登場する。その影が勝手に動き出し、アーサーをタンスに閉じ込めてステージを占拠するというながれなのだが、この劇場に入るシーンでこれから使われるミュージカル映画のポスターがほとんど貼られていいるのだという。
 劇中で歌われるシャドウ、ジョーカー、マウンテンの3つのキーワードについても詳しく解説。フランク・シナトラとサミー・デイヴィスJrの関係性や映画のクライマックス、アーサーが裁判所から逃げ出し、ジョーカー信者に助け出されるものの、そこ車から逃げ出してしまうシーンをすでにシャドウで示唆していたなど、筆者がなんとなくそうなのだろうと思ったことを明確に分析してくれている。
 これまでバットマンで描かれていたジョーカーのオマージュ的な演出も面白かった。車から逃げ出してから筆者もあのタクシーに乗り込むのではないかと思ったのだけれども、そこをスルーするんかい! となった人は多いのではないだろうか。

 そしてトッド・フィリップス監督がこれまでずっと同じテーマで映画を撮っていたことに言及。もうなるほどと膝を何回も打ってしまった。

 そして大島氏はジョーカーの影響は社会的にそれほどなかったのではないかと指摘していたが、町山氏によれば、反省文を書きたくなるくらいの影響はあったとする意見も見逃せない。

 製作者はこの作品はリアリティを追及はしていたと思うけど、これはあくまでも映画であるという姿勢、映画の文脈でリアリティのある狂気を描いたに過ぎず、その狂気はどこにでも誰にでもある可能性を示唆しているからと言って、現実との境目はちゃんと描いていたと思う。
 ゆえにあのミュージカル風の演出があり、二人の凄腕の役者は強いて素人臭い歌い方をしていたのだと思う。とはいえ、ガガはガガだなぁとも思ったし、ホアキンは相変わらず演技なのか本性なのかわからない危うさを醸し出していた。

 良作である。

最後にこの作品の挿入歌をまとめたサイトを紹介

 一回見て乗り切れなかった人も少なくないと思う。筆者は大島氏のようにあまり楽しい方向には期待してはいなかったものの、やはり多くの人にこの作品が何をしようとしていたか、そこをうまくくみ取れたらな全く違った作品い見えるのではないかと期待をしています。

 もしここで紹介した考察動画を見てもう一度あの狂気を観に行こうと思っていただければ幸いです。

 そしてもう一度がっかりしてください。この映画はジョーカーではなくアーサーの不甲斐なさにみんなでがっかりする様も含めての映画という特殊な構造をしているのではないかと思います。

 ライブペイントとは違うかもしれませんが、ライブペイント的手法の映画と仮にするのであれば、がっかりした観客席を俯瞰で見てください。なんだかこれでよかったと思いませんか?

 それがリアリティであり、ジョーカー的にふるまうのはチートの許される世界。ガガのようなチート級の歌手がいきなりあなたに恋をしないし、ホアキンのようなチート級の役者が狂気に身を任せて観客に狂気で魅せるなんてことは、危なっかしくて見てられない。
 映画館の外はまぎれもないクソみたいな現実だけどクソまみれになって生きているのが僕らなのだから。

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