浮遊する言葉、不可逆変換
言葉が宙に浮いている。この言葉は、私の頭の中で生まれて、話し言葉としての形態を持たず、直接書き言葉としてここに記されている。
私の頭の中で浮かんだ言葉は、最初の1フレーズだけは確かに浮かんだ感覚があるが、それ以降は浮かんだ感覚もなく、脳から手へと言葉がニュートラルに進行し、手を動かしている。考えたものが遅延を伴わずに表象化される状態。それが長く続くこともあれば、思考が途絶えて突然停止することもある。
頭の中で浮かんだものを言葉、書く・タイプする、何らかの形式で表象化されたものを文字としよう。初めは必ず言葉が先行している。言葉から始まり、徐々に文字が追いついていき、言葉と文字が一体になる。最後には文字が言葉を追い抜かしてしまうような感覚さえ覚える場合もある。
今、タイプする手、つまり文字が止まった。次に言葉→文字変換するための言葉を考えているのだ。言葉が止まることはあまりない。途切れることさえあっても思考は止まらず、最後の文字に次に続くべき言葉を探し続けている。それがどんなものであれ。
この頭の中で浮く=湧き出てくる感覚とは別の意味で、言葉が浮いている。正確には、私から離れた言葉、言葉が表象化された文字が浮いている。その文字はもう私の言葉には戻らない。私から放たれた言葉は私にとって馴染み深くあるはずで、本来は私⇄世界で可逆変換のはずが、この場合不可逆変換になっている。言葉の親離れ。私は親しみを覚えることができず、パーソナルスペースを隔ててそれを客観的に見ることしかできない。
言葉を文字として、第三者に見せようとするからだろうか。格好つけていると言われればそれだけの話である。エリクチュールとパロールでは根本的に語尾や一人称が違う。私は私生活で私という一人称を使わないし、〜である。で文末を終えることもない。吾輩は猫である、とは誰も私生活で言わないように。
私の記す文字は、私から浮いている。これをもっと私の手元に引き寄せたい。一般に成り立つ必要はない。せめて私の言葉⇄文字の可逆変換が成り立つようにできないだろうか。そうでないと、日記が小説になってしまう。毎日記す文章が、私の手にすら収まらなければ、誰の元にも収まることはない。決して誰かに収まることを目的としているわけではないのだけれど。