大声で話すということ

空を飛ぶ翼にも憧れはあるが、大声で話す口にも憧れがある。
大きな声で話せない。自分の発言が周囲の人に聞かれているかもと思うと、恥ずかしさが閾値を超える。自分には周囲の人の話が頭に入ってきてしまうので、他の人の迷惑にならないように、という気遣いの一面もある。

松屋で外国人の店員さんが大声で話していた。内容が全て聞き取れた。大した内容ではないし、お客さんの対応の時には普通に接客していたし、そのこと自体には何の問題もないと思う。そんなことを求める店ではない。食洗機や換気扇などの機械騒音がうるさいから、そのくらい声を出さないとお互いに聞こえないのだろう。

ただただ、あのように話すことができる点に羨望を抱いてしまった。国民性ではなく、個人的な問題だろう。ひとりでに感じてしまう周りの目に押し潰されないように生きたい。

道端で、老夫婦の会話を聞いてしまった。
おばあさん「ふがふがふが」
おじいさん「なんて?」
おばあさん「ふがふがふが」
おじいさん「なんて?」
おばあさん「ふがふがふが」
おじいさん「もういいって! ごにょごにょ、、、」

これも大声での会話(と呼んでいいのかはわからないが)だった。そのくらい声を出さないとお互いに聞こえないのだと思う。それ以前の問題もありそうだったが。

結局、周囲の声をこんな風にきいてしまう私自身に問題があるのだと思う。意識して聞いているわけではないが、一度耳に入ってきてしまうと、意図せずとも聞いてしまう。日常的に周囲の会話を聞いているという意識が、自分が話すときに周囲が私の言葉を聞いているのではという意識をもたらしている。

自意識が過剰なのか。過剰を抑制するためには、もう少し空気のような存在にならねばならない。十分そのつもりではいるのだけれど。人は社会の中では基本的に空気だ。空気として、自らに関心を持つものはいないという意識を先に持つことができれば幸せだ。

楽観的・積極的社会透明性と、悲観的・消極的社会透明性。
前者は自分が社会の中で空気だと考えるため、自分の行為が社会に反映されることもなく、社会から関心を持たれることもないと開きなおる。行動に自分で制限をかけない。
後者は自分が社会に見られていると考える。外から見られているという意識をもつため、社会に自己の行動が反映さえないよう、境界をはみ出すことがないよう行動に制限をかける。

生きやすいのはおそらく前者で、私はそれに憧れている。

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