「幸せにしてもらうんだよ」
最近、Kindle unlimitedで雑誌・天然生活を読むのが楽しい。
ご飯を食べて、お風呂に入った後にボーッと温かい茶でも適当に入れて飲むのが至福の時間である。
自然の中で暮らしたり、ジャムを作ったり、自分の家で育ったハーブでハーブティーを飲む…。丁寧に大切に生きている人の暮らしが垣間見れて、うっとりしながらいつも読んでいる。
写真や文章から、私が思う『The・幸せ』の空気が出ていてすごく癒される。私もこういう暮らしがしたいぜ。
お盆のときに、結婚したことをばあちゃんに伝えた。
そしたらばあちゃんは「幸せにしてもらうんだよ」と私に言った。
「幸せは二人で作っていくよ」とか「もう充分幸せだよ」と言い返したかったけれど、強く何度も言うもんだから何も言えなかった。
ばあちゃんの考えを否定するのも違うかぁ、と思ったのもある。
その言葉を言われてから、ばあちゃん世代の幸せについて考えている。
多分、結婚こそが幸せの道だったんだろうと思う。
花嫁修行をする、数回しか会ったこともない人と結婚する。
それが普通だったらしいし、女はとっとと結婚して家庭に入り、子供を産めよ育てよの時代だったから苦労もたくさんしただろう。でも、「なんで?」って思うことはなかったのだろうか。思ったって、言ったって、どうしようもない時代だったのか。それとも当たり前すぎたのか。
じいちゃんはもう天国にいるが、記憶の中ではキッチンに立っているところなんて見たこともない。ゴミ出ししてるところも、1人で食材を買っているところも。ばあちゃんが淹れたコーヒーを啜ってテレビを見ていた記憶が残っている。
キッチンに立つこと=愛という訳ではないが、私だったら専業主婦だったとしても自分の箸くらい用意してくれよときっと思ってしまう。
(でもじいちゃんは優しい人だった、それはちゃんと書いておく)
私が幼い頃、そんなじいちゃんを見ても「じいちゃんも用意しなよ!」なんて言わなかったしそもそも思わなかった。私自身、女の人だけ動くことに何の疑問も感じていなかった。
孫溺愛祖父だったので、私たちがもしじいちゃんに言っていたらばあちゃんも少しは楽をすることができたのかもしれないなぁと今更思う。
どうしても女なのでばあちゃん側を楽させたい気持ちに傾いてしまうが、じいちゃん一人の稼ぎで家族が普通に暮らせたんだから、そう思うと家のことは妻に全て任せる、でなんだかんだ平等ではあるのかな。
戦争もあった時代だし、平和でのほほんと生きた私が考えることとはやっぱり根底が違うのかもしれない。
ばあちゃん世代・父母世代・そして私たち世代の価値観の違いについて、つい最近姉と話した。
「幸せの形が変わっていったんだろう」ということに落ち着いた。
子供がいる・家がある・いい大学・いい会社…なんて世間一般が言う幸せのレールの上を走るべし!という思考から、今はそのレールがあんまり走られなくなったなと思う。まだ人気のコースではあるけれど、レールをはみ出した列車があっても、周りが気にしなくなってきたというか。
昔は12両編成の幸せ直通満員電車だったのが、それぞれマイカーで自由に走れるようになりつつあるというか。
個々の考える幸せが尊重されるようになったというか。
有形の幸せから、無形の幸せに変わっていったというか。
そう思うといい時代になったのう…と突然の神目線になる。
きっと今赤ちゃんの子たちが大人になるころには、より個々を尊重する感じになっていくのだろう。マイカーじゃなくて自転車でもいいし、歩いてもいいし、なんなら飛行機でバビューンと、レールなんかない場所に飛んでいってもいいんだ。自由に選択できることは幸せの1つだろう。
いい面だけじゃなくて、昔に比べて人との繋がりが薄くなっているなとは思うけれど。
毎年夏は「ぼくのなつやすみ」の実況を見返すのだが、ぼくくんは街の大人と話したり街の子供と遊んだりしている。大自然に囲まれて、大人になっても思い出すようなひと夏の経験。内向型の私でもこんな夏を過ごしたいと思ってしまうような。
このゲームの舞台である昭和時代とくらべると、令和版ぼくのなつやすみがあったとしたら、まず知らない大人とは話さないだろうし田舎の小学生とはいえ夏の間中、朝から夕まで1人では出かけないだろう。(暑いせいも大いにある)
令和版が出たら売れないだろうな…。
個々が尊重されるってことは、一人で抱えることや選択することがより増えていくのだろうな。その面に関しては、あーやだやだといった感じだ。
これからは親世代や祖父母世代の価値観も尊重しつつ、「私は違うよ~」って部分はちゃんとその都度話していけたらいいな。
「幸せとは」なんて言われると大層な気がして難しいけれど、日常に散らばってる好きな気持ちとか楽しい気持ちをちゃんと噛みしめて、これからも生きていこうと思う。