ADHD者が日常で駆使する呪術

最近、動画配信の方にかまけていて、毎週note記事を一本書くということを忘れていたので、過去(2018年)に今すぐやる会で発行した同人誌に書いた原稿を転載しておきます。

東京・群馬の往復生活

私は今年の四月から大学院生になった。主に土日は今まで通り東京にある自宅兼事務所で仕事を行い、平日には群馬県前橋市に借りた部屋に寝泊まりをしながら大学に通う。毎週二つの住居を行き来するようになった。

東京の自宅兼事務所では、もう長い間、彼女と一緒に住んで生活している。大学に行くようになる前は、私の方が自宅にいる時間が長く、家事の大半は私がやっていた。私も本誌読者同様にADHD傾向が強い。子どものころから親や教師に「なぜそんなにだらしないのか?」と言われ続けて生きてきた。学生時代、私の部屋の中は足の踏み場もないほどに荒れ果てていた。

だからといって、雑然とした汚い部屋が好きなわけではない。本当はカフェのようなおしゃれできれいな空間で毎日を過ごしたい。一念発起して、部屋をきれいに掃除することはたまにあった。しかし、片付いた状態は決して長続きしない。それを維持する努力が続かなかった。

それでも20代後半になり、実家を出て一人暮らしをするようになると、なんとかする必要が出てくる。掃除、洗濯、炊事、洗い物、生活に必要な家事を自分のかわりにやってくれる人は誰もいない。私は徐々に工夫をするようになった。家事サイクルを回し続ける方法を試行錯誤で模索した。とにかく、少ない手間で効率よく家事を回せるシステムとはどのようなものか? その結果、完全に綺麗に片付いているとまでは言えないまでも、まあ、なんとか人間の住む部屋としての形を保てるようにはなってきた。それが私の現状である。

一方、ウチの彼女の家事スキルはどうか? 彼女は私以上に家事が苦手だ。彼女もおそらくADHD傾向がある。多分ASDも少し入っている。過去、大学生時代に寮で1人暮らしを数カ月だけしたことがあるそうなのだが、部屋の中が壊滅状態に陥り、自分でもどうすることもできず、そのまま部屋を引き払って実家に戻ったらしい。群馬と東京の往復生活になって一番不安だったことは、私がいない間、彼女はちゃんと東京の部屋を壊滅させずに家事サイクルをキープすることができるのか?ということだった。

さて、私の東京・群馬往復生活が始まった。確かに東京の部屋に戻ってきたときにはだいぶ散らかった状態にはなっていたが、それでも、私が東京に帰ってきた日、一日を使ってすべての溜まった家事を行えば、なんとか回復できるレベルではあった。

キッチン悪臭事件

ところが、事態は水面下で進行していたのだった。先週、私が東京に戻ってきたとき、キッチン周りでなにか異臭を感じた。

「ねえ、キッチンのあたりなんか臭くない?なんかドブ川のような臭いがしない?」

そう彼女に問うと、

「そう? 私は全然わからない。感じないよ」

と彼女は興味なさそうに答えを返した。
私は「自分の気のせいかな?」と思ってそのままに群馬へと向かった。

そして、昨日再び、東京の部屋に戻った。リビングに足を踏み入れると、また例の悪臭がする。それも先週よりも一段と臭いが強くなってきている。もうこのまま気づかないふりもできない。私はキッチン周辺を中心とした大捜索活動を開始した。

「ん!?」

私が注目したのはキッチンカウンター棚内の木箱、常温保存できる食材置き場だった。何やら不穏な空気を漂わせるビニール袋がそこにあった。

「これは!」

中身はジャガイモだった。購入後、その存在を忘れ去られた小さめのジャガイモが、全部で10個ほど未開封のままビニール袋に入れられている。ジャガイモは既に黒紫に変色しており、指で押すと柔らかくグニュグニュと軟化している。既に腐敗しているジャガイモからは長い茎が伸びている。いつまでたっても出番が来ないジャガイモたちはついに自ら成長する道を選んだようだった。今まで棚の片隅でひっそりと静かにささやかな臭いだけで存在感を発揮していたジャガイモ袋だったが、こうして私が棚から取り出したことによって、寝た子を起こしてしまったらしい。強烈な臭いが襲いかかってきた。

私は言葉を失い、キッチンカウンターの棚に視線を戻した。

「まだあった!」

そこになんともう一袋未開封のジャガイモ袋があるのを見つけてしまった。これはさっきのに比べるとまだ新しいらしく、色はかろうじてジャガイモらしい灰茶色を保っている。しかし、あちらこちらから発芽をはじめ、袋の上からの手触りも既に柔らかい。白いカビも見られ、先ほど同様の悪臭を放っている。

私は徐々に事の全貌を把握し始めた。どうやら、この食材置き場は魔窟になっている。それもとびきりヤバい現場だ。ということはもしかして他にも色々と……連続猟奇殺人犯が犯行用のアジトとして使っていた部屋に、初めて捜査員が足を踏み入れたとき、彼らは今の自分と同じ気持ちになっているに違いない。これ以上何も出てきてほしくはない。出てきてほしくはないのだが、出てきてしまう確信だけはある。見たくないが見るしかない。それが私の責務である。

「なんということだ……」

次のブツは謎のジップロックだった。恐る恐るそのジップロックをつまみ上げて顔の前に持ってくると、内容物は黒紫色の液状化した何かだった。それは先ほどのビニール袋を上回る臭気を発している。臭いと色の共通性から私は全てを悟った。これもジャガイモだ。ジャガイモの腐敗がマックスに至ると、こうやって完全に液状化するのだろう。ジャガイモの腐敗の様子を進行度別に三段階同時に目にする機会というのは滅多にない。もしも私が理系人間であればそれはそれで貴重な体験ができたと喜んだに違いないが、残念ながらそのような人間ではない。臭くて気持ち悪いだけである。私には特殊清掃員への適性がないようだ。

「なんかドブ川のような臭いがしない?」

私は先週、彼女に聞いた。それは気のせいなんかじゃなかった。完全に正しかったのだ。これは腐敗臭だ。ドブ川の臭いは腐敗臭だったのだ。ジップロックは気密性が高いはずだが、それでも中から強烈な臭いがしてくる。一見、完全密封されているように見えるジップロックも、その気密性は完璧ではない。そんなごく当たり前の事実を肌で実感した。

その後、更なる捜査範囲の拡大により、冷蔵庫の野菜室も同様の惨状となっていることを発見する。その様子はさながら、トマトやらニンジンやらセロリやらリンゴやらが展示される腐敗物ミュージアムであった。

「密封」概念をめぐる科学と呪術のせめぎ合い

ジップロックでは完全に密封することができない。そのことについて思いを巡らすとき、彼女の持つ一つの信仰、呪術的魔力への信頼について思い起こさずにはいられない。ひょっとしたら、彼女はジップロックの口を完全に閉めてしなかったのかもしれない。なぜならば、彼女の中にはごく一般的な「密封」「気密性」という概念がどうも存在しないようにみえるからだ。彼女は小食で皿に乗せた料理を半分も食べずに残すことが多い。その後、サランラップをかけて冷蔵庫に入れてしまう。それを数週間、数カ月、その状態で冷蔵庫に入れっぱなしにする。そんな長期間、食べかけの料理を皿のまま冷蔵庫に入れっぱなしにしておいて衛生的にどうなのか?という疑問が当然湧いてくるわけだが、その点を彼女に問うても彼女は自信を持って言い切る。

「大丈夫。ラップをかけてあるから」

 さらに注目すべきはサランラップのかけ方である。本来は外気と食品とを遮断することが目的であるから、隙間を作らないように完全に密封する。しかし、彼女は非常に繊細に柔らかくふわふわと食材の上にサランラップを乗せる。そして、通気性を確保するかの如く、かならず隙間を作る。

 ここから、一つの仮説が立ち上がる。彼女にとって、サランラップをかける行為は、外の空気と食品が触れる量をなるべく減らし、酸化や細菌の繁殖を防ぐという科学的手段ではない。彼女にとってサランラップは破邪の封印である。「ラップ」という名の聖なるお札を食品に貼ることにより、そこに忍び寄るありとあらゆる不幸を追い払うことができる。これは完全に儀式化した呪術だ。我々の日常にはこのようにして呪術的思考がしばしば潜む。

 彼女の存在は自然科学教育の敗北と言うこともできるであろう。しかし、レヴィ・ストロース『野生の思考』の正しさを証明しているとも言える。呪術も科学も我々にとって本質的には大して変わらないのだ。我々は科学的技術の根底にある仕組みを理解しないまま、呪術的にその成果物だけを享受している。その結果、電子レンジで猫を乾かすような悲劇も起こる。これは必然だ。

科学的「ブラッシング」と呪術的「歯磨き」

私は仕事の上で歯科医師と関わることが多い。彼らと関わるようになって知ったのは虫歯や歯周病予防におけるブラッシングの意味と重要性についてである。歯科医師の多くは、人々が一般的にブラッシングを呪術的に行っていることを危惧している。歯科医師にとってブラッシングとは歯や歯と歯茎の間の歯垢を落とすためにブラシを使うという科学的手段である。どのような角度で、どの部位に、どのくらいの強さで、何回ぐらい、どうブラシを動かすか?そうやって汚れがもっとも効果的に落ちる方法を模索する。そういう科学的な試行錯誤こそが「ブラッシング」である。

一方、多くの患者にとって「歯磨き」とは、とにかく口の中にブラシを突っ込んで適当に動かす儀式だ。その儀式により虫歯という不幸を遠ざけることができる。そして運悪く虫歯ができれば「ちゃんと歯を磨いているのに、虫歯が新しくできるなんてひどい!」と患者は神を呪う。しばしば、その呪いはブラッシングを命じた歯科医師にも向かうことがあり、歯科医師はそれを何よりも恐れている。

かつて、キリスト教の宣教師たちは、遠くアマゾンの秘境まで布教活動をした。土着の信仰を持つ部族民のもとへ、最先端の技術と共にキリスト教の信仰を持ち込もうとした。そんな宣教師の姿はどことなく今の歯科医師ともかぶる。

そう。私のように歯科医師との交流が深くなってくると、大半の歯科医師の信仰深さにも気づき始める。歯科医師たちも歯にまつわる様々な知識や情報の全てを自らが科学的に把握・理解しているわけではない。実のところ「信頼できるあの○○先生がこれが正しいとおっしゃっているから」という呪術的、信仰的な手段選択の様式を採用していることは多い。科学と呪術は常に隣り合わせだ。

トイレの手洗いと呪術

かくいう私もトイレでの小用後の手洗いは極めて呪術的にやっている。神社参拝前の手水の儀式と同じだ。便器に当たって跳ねて手についた小便をあまさず洗い落とす、そんな強い意欲をもって手洗いなどをしてはいない。ただ、もしも周りの人間が、私が手を洗わずにトイレを出る姿を見たならば、それを不潔の象徴と捉えるかもしれない。だから、社会的、儀式的行為として手を水につけるそぶりをしておこう。なんかよくわからないけれども、洗わないよりは洗っておいた方がいいんじゃない? そんな程度のものである。

世間には飲尿健康法なるものもある。尿が手についた状態のままだとどれほどの害があるのか? 私はまだそこについて正確な科学的知見を持っていない。せっかくなのでこの機会にちょっと検索してみた。あるサイトによると出たばかりの尿はきれいなのだが、手に付着した尿が時間の経過とともに菌が増殖し、腐敗するようだ。またトイレ自体に細菌が多く、ノロウィルス感染の原因となったりもするとのこと。実はトイレだけが特に汚いわけでもなくて、電車の手すりとかはかなり汚いから握った後は手を洗った方がいいみたいだ。なんにせよ、今後は心を入れ替えて、科学的意図をもってきちんと目的に適う手の洗い方をしていきたい(と形ばかりは言っておく)。

何はともあれ、トイレでの手洗い励行の科学的根拠を知らずとも、呪術的思考に基づいて手洗いが行われれば、それが行われないときよりも不都合が生じることはあるまい。やらないよりはやるほうがまし。こうして科学的手段が呪術的思考のもとに普及されていく。呪術が科学の恩恵を広めるのだ。

興味のコントロールは難しい

さて、話をキッチン悪臭事件に戻そう。このような悲劇を二度と起こさないためにはどうしたらいいのか?それが私たちにとって切実な問題である。

彼女は東京の部屋にずっといた。だが、この臭いを全く気にもしないし、気づかない。私は先週戻った時から、何か変な臭いがすると騒いでいた。これは私と彼女の嗅覚や清潔さに対する感度の違いだ。密封もしないで冷蔵庫内に放置したものを1ヶ月くらいそのままにしてそれを食べられる感性を彼女は持っている。不潔さに興味がいかない。感性の違いを念頭に置いて、再発防止策を立てないことにはまったく無意味なものになってしまう。

また、臭いや清潔さについてだけでなく、食材管理に対する興味も重要だ。食材を買うのはいいが、腐らせないように管理するにはそれなりに意識をそこに向ける必要がある。彼女はそこに全く意識や興味がいかないから、自然と食材を腐らせるし、そのまま平然としていられる。

興味というのは自然と持ってしまうものだ。あることについて意図的に興味を持つのは難しい。なにかについて興味を持てないという問題を解決するのはそう簡単ではない。

こういったことは単に意図的な努力を相手に要求するのではなく、相手がつい興味を持たずにはいられないようなシステムを問題の周りに構築していくことで状況の改善を図る必要があると思われる。

見えないものは存在しない

今回、彼女はキッチンに大惨事を引き起こしたわけだが、それは彼女が望んで引き起こしたことではない。できれば、そんなことは起こさずにきちんと食材運用もしたいと思っているはずだが、それでも今回の結果となった。

その理由は何なのか?

事件現場となったキッチン棚と冷蔵庫の野菜室の中はどちらも目立たない場所だ。わざわざそこを注目して眺めないと、収納された食材の存在を忘れてしまう。私自身も野菜室の野菜やフルーツをダメにしたことは何度もあるので、存在自体を忘れてしまう感覚はよくわかる。

ADHDはワーキングメモリーの障害であると言われる。その傾向の強い人ほど、目の前に今、見えているものに反応しがちだ。逆に言えば、視界の外にあるものについてはその存在をすぐに忘れる。電車の座席の端に座り、横の手すりに傘をかけて読書や居眠りでもしようものなら、かなりの確率で傘の存在自体を忘れたまま電車を降りてしまう。

彼女は風呂や洗面所の掃除の担当でもある。しかし、いつも風呂の排水口掃除をしないで詰まらせる。これも排水口の蓋の下は普段見えなくなっているからだろう。見えない部分に対する作業を思い出すのが難しい。

だから、なんとかして食材を見える範囲で管理する工夫が必要になる。単に見ようとしたら見えるだけではなくて、見ようという意識的努力なしでもそれが目に入るような仕組みを日常生活の習慣の中に組み込まねばならない。それが見えていない限り、それを見ること自体も忘れてしまうのがADHD者の宿命だからだ。自動リマインドシステムのビルトインに成功するかどうか?ここが問題解決のポイントであり、難しいところでもある。

先延ばし、逃避行動の呪術的側面

ADHD傾向の強い人間は見えないものの存在を忘れる。この傾向はADHD特有の呪術を作り出す。

「存在してほしくないものは、見えなくしろ。そうすれば、その存在は世界から消滅する」

たとえば、私は今、修士論文のテーマ決定をして、計画書を提出しなければならない。実はすでに締め切りを3カ月ほど過ぎているが、学務課に頼み倒して伸ばしてもらっている。修士論文テーマ決定作業に注力するため、今回、私は本誌への投稿はしない予定であった。だが、そのように宣言してみたものの、結局、今こうして本誌に掲載する文章を書いている。それはなぜか?

ちょうどキッチン悪臭事件という今すぐやる会的な案件が昨日起きたということもあるが、そこはさほど重要じゃない。もっと重要なのは、この原稿を書いている間、私はしばし修論計画書作成の存在を忘れていられる、ということだ。いわば逃避である。この原稿作業に集中すればするほど、私は修論計画書から解放される。私の中で修論は無いものになる。もちろん、作業が終わって現実と向き合うとそれはさらに重みを増して後悔と共に私の前に現れるわけではあるが、それでもこの数時間、私は心の重荷を少し下ろし、非常に心穏やかな充実した時間を過ごす。こんなに気持ちが軽いのは久しぶりだ。いつものようにずっと「修論どうしよう?」「修論計画書早く作らなきゃ」と重い気持ちで迷っているのとは大違いだ。ゲームに集中する。家事に集中する。逃避的過集中は、集中対象以外の全てをこの世界から一時的に消し去る魔法であり、私の中の呪術である。

この呪術は、ある作業への過集中以外のやり方でも発動する。私たちは「これは後でやることにしよう」といって、ある対象を物理的に見えないところに押しやったりする。そのとき、私たちは知らず知らずのうちに呪術を発動させる準備をしている。物理的に見え無くなれば、私たちはその存在を速やかに忘れ、忘れ去られたものはその世界においては存在しなくなる。

別の物事に集中することで見えなくする。物理的に目につきにくいところに押しやって見えなくする。どちらのやり方にせよ我らADHD者はその存在を呪術的に消し去ることができる。いつか本当にヤバい現実と直面させられるまでは。呪術の御利用は計画的に。

キッチン非常事態宣言発令

今回はカビ菌のパンデミックを抑える目的でキッチン非常事態宣言を発令した。彼女が自分でうまく運用できる食材管理システムを考案し、実行する。それが動き始めるまで、一切の新規食材購入をストップする。そうすれば、原理上、部屋の食材は管理できる分量まで減っていくはずである。自炊も一切しない。彼女は料理自体は好きな人なので、どうしても料理をしたいのであれば、必然的に食材管理システムについても自分で考えて実行していくことになるはずだ。そこまで彼女がやりたくないと感じるならば、無理に冷蔵庫など使わずにすべてを外食で済ませるであろうし、それはそれで全く問題がない。

彼女からの提案は意外なものであった。彼女は現在、新しい職場でエクセル表を作ることにはまっているらしく、食材管理用のエクセルシートを作ると言い出した。私からすると、買い物をするたびにそのエクセルシートに記入するのは大変に面倒くさくて続かないシステムなのではないかと予想しているのであるが、彼女は大変にやる気に満ちている。だから、とりあえずそれでやってみてもらうことにした。それでうまくいくようであれば、私としては何の問題もない。はてさて、どうなることやら。


(2020年8月21日追記)
彼女はそのエクセルシートを稼働させることなく現在に至る。先日、キッチン悪臭事件にてジャガイモが腐敗していたのとまったく同じカウンター棚の中で、水沢うどんが腐敗、液状化し、コバエが大発生するという第二の悲劇が起きた。もう二度とこのような悲劇を起こすまいという決意を込めて、ここに過去原稿を転載する。

なお、トイレの手洗いの話があるが、新型コロナウィルス感染拡大に伴い、真剣に、科学的に、きちんとウィルスを落とすような手の洗い方が、実際に要求されるようになってきた。私も効率の良い適切な手の洗い方動画を見て学び、外出後やトイレの後はきちんと石鹸を使って手を洗うようになった。そんな時代になったからこそ、こうして改めて転載してみるのもいいかな、と思ったのもある。


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