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自由意思不在の責任論

木村花さんの件がきっかけになって、Twitterで鍵アカウントの友人から質問を受けた。面白い質問なので転載許可を取って、それに公開で答えることにした。

なおこの件についてのあらましと自分の主な見解は以下の記事にまとめておいた。

これをふまえて質問の方に移ろう。まず、発端はこの辺のツイートである。

この一連のツイートに見られるぼくの木村花さんの行動の捉え方をまとめると以下のようになる。

「彼女は仕事として自らヒール役を選んでチャレンジした。だが炎上度合とメンタルのコントロールに失敗し、結果として命を落とした。彼女の選択を尊重するならば、この結果も仕方がないものとして引き受けるべきであろう。少なくとも彼女を一方的な被害者と見るのは、彼女の名誉を汚すものである」

いわゆる愚行権も含め、自己決定を尊重をする立場だ。

これに対して、友人H君から以下のような質問をもらった。

こうじさんに質問です。おそらくこうじさんも僕も、人間は、環境やその人を構成する要素(例えば遺伝や生まれ持った能力、年齢)に多大な影響を受けている、と考えるタイプだと思います。

そして私たちはおそらく、いわゆる「責任」や「自由意志」は虚構だ、という小坂井先生の論理(『責任という虚構』を参照)に「そうであろう」と考えていると思います。素朴な意味で「自由意志がある」とか、素朴に「人は自由に選択や行動ができる」と考えているわけではないのだと思います。

その上で、こうじさんのツイートを見ていると、その相手が一人の大人であれば、その人の言動の責任はその人にあると、その人の環境や年齢や能力とは無関係に、分け隔てなく扱っているように感じます。

この2つの考え(人間は外部や内部に規定され、素朴な意味で自由ではない、かつ、その人の内部や外部とは無関係にその人の言動の責任はその人にある)が、しっかりとした強度でともに成り立っているのが、不思議にみえます。

というのも、僕は、人間が環境や内部にどうしようもなく規定されるという前提に立った場合、ある人の過去が悲惨であればあるほど、悲惨な目にあえばあうほど、環境や才能や能力といったものから切り離した言動への責任、というものを、うまく感じられなくなる傾向が自分にあるように思うからです。

例えば僕の場合、外傷的な育ちを生き抜いてきた人の言動が滅茶苦茶な場合、そこに責任を感じる度合いが減ります。例えどちらも職業を本人が選んだとしても22歳と74歳が自殺したのでは、異なるように見えます。影響される度合いや脆弱性、守るべき度合いが年齢により違うだろうと感じるからです。

うまく説明できてないかも知れないのですが、こうじさんには、その人の内部や外部がどうであろうと責任それ自体は変わらないように見えているように僕に見えます。それがどうやって成立しているのだろうか、と興味があります。逆にこうじさんから見れば僕がよくわからないかも知れないですが。

責任ってそういうものでしょう、と言われればそうなのですが。

不要かもしれないですが一応補足しておきます。例えば、「人間は自由意志があり、言動は本人が自律的に自由に決めている、だから一般に成人にはその言動に対して責任がある」という世界観の人を、僕はよく理解できます。その前提に立てばそうだからです。

また、例えば「人の行動は環境や与えられた能力により定まり本人が"自由"に決めているものなど本当は何もない、故にすべての言動は原因と結果の表れに過ぎない」と考える人も理解できます、その前提に立てばそうだからです。

ですがこうじさんの世界観では「人の行動は環境や与えられた能力により規定されており、自由意志は虚構である。しかし一般に成人した心神喪失や心神耗弱でない人の言動の責任は本人にある」という2つが強度を保って成り立っているように見えます。

このありかたが私には不思議に見えます。どういう構造でそれが成り立っているんでしょうか。

僕の頭で一つ思いつく解法は、プラグマティズムです。責任という概念をそのように運用するのがもっとも功利的だろう、と考えのもと、責任を運用するぞ、という信念を抱き、その下で(虚構と知りつつ)運用する、というスタンスであるのならば僕に理解ができます。

素晴らしいところにボールを投げてくる。正直、これに答えようと思ったら、何をどれくらい書くことになるのか見当もつかない。でも、答えてみたい気持ちで一杯である。そういうわけで、今から頭を悩ませてこの質問に答えていこうと思う。

まず、質問内容を細かいパーツに分解してみよう。

H君の質問リストと簡単な答え

1.人には外部(環境)や内部(成育歴、知識、経験)から独立した完全に自由な選択(自由意思)は存在しないと考えているか?
→YES

2.自由意思が存在しないのであれば、自由意思概念に基づいた責任概念も虚構であると考えているか?
→YES

3.相手が一人の大人であれば、その人の言動の責任はその人にあると、その人の環境や年齢や能力とは無関係に、分け隔てなく扱っているか?
→基本的にはYES、その際、自由意思概念に基づいた責任ではなく、自由意思概念に基づかない責任を想定している。

4.「人間は外部や内部に規定され、素朴な意味で自由ではない」「その人の内部や外部とは無関係にその人の言動の責任はその人にある」この2つが、しっかりとした強度でともに成り立っているか?
→YES

5.「人間は外部や内部に規定され、素朴な意味で自由ではない」「その人の内部や外部とは無関係にその人の言動の責任はその人にある」この2つは、なぜ両立すると考えるのか?
→自由意思に基づかない責任概念を想定しているから。そうであれば、自由意思がないことと、責任が成立することの両立には何の問題もない。

6.5の質問への答えはプラグマティズムか?
→「プラグマティズム」と言ってしまうと特定の哲学的思想を指してしまいそうなんだけど、「プラグマティック(実用主義的)」な発想は確実にある

では、各質問について順に回答していく。

1.自由意思は存在しないのか?

人間は何かしらの影響を受けながら、判断をし、意思決定を行う。全く無からの自由意思というものは存在しない。

ぼくが車を運転して人を轢いたとする。ぼくの前方不注意がその原因だったとして、その前方不注意はどこから生じたものであろうか?ぼくの脳の器質的問題かもしれない。これだと先天的なものであり、ぼくの意思だけでどうこう変えられるものではない。

もしくは集中力を養うトレーニングを十分にしてこなかったことが原因かもしれない。トレーニングをしておけば事故は避けられた。では、なんで集中力を養うトレーニングをしてこなかったのか?そんなことを考える機会、きっかけが今までなかったからかもしれない。そうだとすれば、その機会に出会う運がなかったということであり、単なる不運である。やはりぼくの意思だけでどうにかできる問題ではない。

これだとどうだろうか?集中力養成トレーニングを思い立って試してみたことはある。だが、挫折した。この場合、トレーニングを継続できる心の強さを持っていなかったということである。心の強さはどのようにして持つことができるのか?生まれつきの資質だとすれば、そこに意思の介入する余地はない。

では、心の強さを身につけるのは意欲だとしてみよう。それを身につけたいと思う心のことだ。ところが、意欲こそ意思ではなんともしがたい。意欲が持てないことについて、外界から働きかけなしに意思のみで意欲を持てるのであれば、こんなに人生楽なことはない。意欲ほど意思でコントロールできないものはない。

こんな風にして、ぼくたちの行動は必ず自らの体験記憶、知識、思考・感情パターンや環境や他者からの介入に紐づいている。ある場面で、なんのしがらみもなく自由な選択をできるというのは幻想だ。なんのしがらみもなく自由な選択をするのが難しいだけじゃなくて、しがらみにもとづいて選択することしかできず、ある意味、そこに自由の入り込む余地は一切ない。

そもそも、ぼくらはある選択場面で一つの選択しかできない。今、ラーメン屋にいて味噌ラーメンと醤油ラーメン、どちらを頼むかで迷っている。うんうんうなって、結局、味噌ラーメンを選んだ。そのとき、ぼくらは本当に醤油ラーメンも選ぶことができたのか?結果としては味噌ラーメンしか選んでいないのだ。もうぼくは味噌ラーメンを選ぶ運命の一本道を歩いていただけなのかもしれない。うんうん悩むこともそこに至るまでの決められた道のりだっただけだ。あらゆる制約から解き放たれて、何でも自由に選べるなんていうのは幻想かもしれないのだ。

2.自由意思概念に基づく責任は虚構なのか?

以前、この書評で以下のような例を挙げた。

一般に責任概念は、自由意思による選択と不可分であり、それを抜きにした責任概念というのはかなり奇妙なものに見える。

人間を轢いたドライバーがその責任を問われるのは、人を轢かないような選択をすることができたはずなのに、そうせずに轢いた、つまり自由意思による選択の結果、人を轢いたからだ。もし、ドライバーがどうやっても人を轢くようにしか運転できないのであれば、そして、運転しないことも選べなかったのであれば、そこに責任を問うということは無意味に思える。

先にも述べた通り、何にも紐づかない自由な選択、自由意思というものは存在しない。ぼくたちは常に外界および自分の内部の状態の総和を行動に反映させる。だから、自由意思概念に基づいた責任というものも虚構である。本当はそんなものは存在していない。ぼくらが勝手にないものをあるという前提にして社会生活を送っているだけだ。これは間違いない。

じゃあ、責任ということについてどう考えたらいいのだろうか?

自由意思概念に基づいた責任が虚構であっても、自由意思概念に基づかない責任であれば設定しうる。

責任を、「自由意思に基づいた選択」とは無関係に、望ましい結果を生み出すための手段として割り切って考える。外部や内部と紐づかない自由な選択は存在していないが、責任の所在を決定するルールの影響を受けて行動選択が変わる可能性は十分にある。これも外部条件の一つだ。

たとえば、「人間を轢いたドライバーには、その事故の責任が課される」とルールを定めたならば、ルールを定めないときよりもより細心の注意を払って運転をするようになるかもしれない。責任の所在を決定するルールのあり様も行動選択に影響を与える外部条件の一つになっている。外部条件の変化がストレートに行動選択に影響を与えると考えれば、ここに「自由意思による自己決定」という虚構を無理にはさむ必要はなくなる。

もちろん、ルールを変えても行動が変わらないケースもある。自動車の運転において制限速度違反には運転免許の減点と罰金が科される。このルールがあることによって制限速度違反の件数は大幅に減っているであろうが、それでもやはり制限速度違反をする人間は出る。

だが、一度、制限速度違反で捕まる体験をすることで、二度目以降は制限速度違反をしなくなる可能性も出てくる。「制限速度違反で捕まり、減点と罰金を科される」という新たな体験が蓄積されることで、次からの行動選択に変化が表れる可能性があるわけだ。

それでも、懲りずに制限速度違反を繰り返す者も一部いる。きっとゼロにはならない。それでいい。全体としてみれば、制限速度違反のルールがない時と比べれば、制限速度以下で安全運転する車がずっと増える。これで十分に社会は回る。

「責任」という単語は英語では"responsibility"である。直訳すれば「応答可能性」という感じか。責任にまつわるルールを外側から変えれば、それに応答するように行動が変わる。応答できた人間は責任を担えたわけである。そこに自由意思による自己決定がなくても問題は起こらない。

まだ言葉のわからない小さい子どもが親と共に公園にやってきた。親が目を離したすきに、子どもは「立ち入り禁止」の看板が立てられている芝生区域に入ってしまった。言葉がわからないのだから、看板は読めない。このとき、子どもの責任を問えるかと聞かれれば、それは無理だと多くの人間は考えるであろう。文字が読めない子どもは「立ち入り禁止」の看板に対する応答可能性がないのだ。外部条件が変化しても、それに反応することができない。

このようにして自由意思なき責任論というものは成立しうる。社会がうまく回るように責任の分配をしてやればよい。応答可能性が一切ないものに対しては責任を求めず、応答可能性がある者に対しては責任を求めて行動の変化を期待する。100%の応答率でなくとも社会は問題なく回る。

3.相手が一人の大人であれば、その人の言動の責任はその人にあると、その人の環境や年齢や能力とは無関係に、分け隔てなく扱っているか?

責任を引き受ける能力とは外界からの要請に適切な形で応答する能力である。小さな子どもはまだその能力が低く、成長と共に高まっていく。子育てとは応答可能性を高めていくプロセスでもある。適切な形で責任を引き受ける能力を伸ばすトレーニングを受けた子どもは、早い時期から大人同様に応答可能性を高めていく。過保護、過干渉、ネグレクト、機能不全家族、虐待など、そのようなチャンスが得られにくい環境で育った子どもは応答可能性が低い。外界からの働きかけに対して無反応であったり、社会から期待される適切な応答ではなく、不適切な応答を返してしまったりする。

責任を引き受ける能力を伸ばすためのトレーニングとはどのようなものか?細かくは色々とあるだろうが、まずは責任を課してみることである。外界からの働きかけに自由に応答するチャンスを与える。そして、その結果を身をもって引き受けることもセットで体験させる。適切な応答をすれば、自分にとって望ましい結果が返ってくるし、不適切な応答をすれば、自分にとって望ましくない結果が返ってくる。

これは、本人の中に強い望みがある事柄でトレーニングするのが一番効率が良い。自分の望みを実現するために外界からの要請に応答しながら行動し、その結果が望み通りのものであれば、適切な行動選択が強化される。望みがかなわなければその行動は強化はされず、次回、同じような状況ではまた異なる行動選択をする可能性が高まる。取り組むテーマに強い望みがあればあるほど、適切な行動を強化する好子(飴と鞭でいう飴)として強く機能する。子どもが小さいころから、失敗する機会も含めて、やりたいことに自由にチャレンジさせてやるのが良いと言われるのはそのためだ。

重要なのは「やりたいことに自由にチャレンジできる」ことと「その結果について、成功にせよ、失敗にせよ、本人が引き受ける」ことがセットになってる点である。周りに甚大な被害を与えるようなことでなく、取り返しのつかないような重大なリスクが低ければ、周囲は過剰に干渉せず、本人の自由にやらせておけばいい。自由なチャレンジとその結果を自ら引き受けること、このセットが「自己責任」という言葉でしばしば表現される。

こうして、適切な応答可能性、つまり、責任を引き受ける能力を引き出された人間は、周囲から過剰な干渉をされなくても、社会との折り合いを適度につけながら、自らの幸福を追求していけることになる。これをぼくたちは「自律的な一人前の大人」と考える。

さて、問題は成人年齢を超えてはいるが、この応答可能性、責任を引き受ける能力が十分に引き出されていない人間をどう扱うべきか?ということである。

重度の障碍者など、応答可能性が著しく低く、今後も大幅に伸びる見込みが低い者については、確かに言葉を読めない幼児に対するのと同じように責任(応答可能性)を期待する度合いを現実的なレベルまで下げて対応する必要がある。

一方、現在はまだ十分に応答可能性が引き出されていないが、この先伸びしろがあるかもしれない者もいる。確かに、彼らは社会が期待する要請に対して、適切に応答できないことがある。だが、それでも一律に責任を期待して良いと考えている。

理由としては以下の三点があげられる。

第一に、社会が個人に責任を期待し、そう扱ってやることで、個人の責任を引き受ける能力が伸びるからだ。最初は適切な応答に失敗するかもしれない。そのときには、本人の望まぬ反応を、社会から受け取る。そして、時には適切な応答に成功する。すると、望ましい反応を受け取る。そういった経験を繰り返すうちに、徐々に責任を引き受ける能力、適切な応答可能性が引き出される可能性がある。

第二に、現実問題として、責任を引き受ける能力を第三者が客観的に判定するのが非常に難しい。特に成人間の微妙な差異などは判定不能だろう。

さらに、もし仮に大人が責任を引き受ける能力を何段階かに判定することができたとしても、それぞれの段階の者に対して、どう対処するともっと状況がよくなるだろうか?その答えがなかなか、みつからない。

おそらく、子ども(未成年者)に対するのと同様に、行動の結果を引き受けないですむ代わりに、取っていい行動にも制限を与えることになる。禁治産制度などがそれに近いものであろう。その状態に留め置いたとしても、その人間は責任を引き受ける能力をなかなか発達させることはできないだろう。そこまできめの細かい教育ができるマンパワーが今の日本にあるとは思えない。

第三に、自分が子ども扱いされ、行動に制限を加えられることを大半の成人は望まない。確かに外部や内部との紐づきの一切ない自由意思は虚構に過ぎないかもしれない。だが、それにもかかわらず、ぼくたちは「自由に行動したい」「自分の行動は自分自身で決めたい」と望む。正確には「自分で自由に行動を選び取った気分になりたい」ということだ。そして、第一の理由として述べたように、その状況こそがもっとも社会からの要請に応答するモチベーションが高まっており、責任を引き受ける能力を伸ばす可能性も高い。だから、やはり、一律に大人としてのフルセットの権利と責任を与えた方が良いと思う。

今回の木村花さんの件についても、同じことが言える。事後的にパターナリズムを持ち込んだりせず、彼女がヒールを演じることにチャレンジするという行動の自由を完全に認め、それに伴う結果も彼女が引き受けることを期待したい。それが、彼女の意思決定と行動を一人前の大人として認めることにつながるからだ。そこに失敗して命を失ったとしても、チャレンジする権利が彼女にあったことを認めることで、彼女の自由と尊厳を守ることができる。

結局、だれかの責任を免除するということは、それとセットでその責任に対応する行動を制限することも伴う。そういった子ども扱いは多くの人にとって傷つくことである。どうしてもそうせざるを得ない状況であればそれも仕方がないが、極力、それは避けて一人前の大人としての自由と責任を相手に認めることが礼儀である。そんな風にぼくは考えている。

これは子どもにだって同じことがいえる。子どもたち対しても可能な限り、大人に近い大きな自由と責任を認めてやると、彼らの多くは生き生きとしてくる。こちらの信頼に応えるべく彼らの応答可能性、自分の人生を自分で選び取り、責任を引き受ける能力を発達させる。

この「自由」とは外部や内部からの紐づけから解放された自由意思に基づいた選択を指すわけではない。本人が「自分で行動を選び取れた」と感じられればそれでいいし、各自が自分の内部や外部の総和として自然と選び取る行動の邪魔をしなければ十分だ。

4と5.「人間は外部や内部に規定され、素朴な意味で自由ではない」「その人の内部や外部とは無関係にその人の言動の責任はその人にある」この2つが、しっかりとした強度でともに成り立っているか?この2つはなぜ両立するのか?

これについてはもうYESという答えだけで十分だろうか。1~3までで、「外部や内部に紐づかない完全な自由意思がない」ことと、「成人には一律に自由に行動する権利とそれに伴う責任を与える」こととが特に問題なく両立することを示してきたつもりである。

もう一度改めて、この2つが両立する理由を簡単に述べておくと「完全な自由意思の存在を前提としない、帰結主義的な責任システムを考えているから」ということになる。自由意思の存在を前提としてない責任システムであれば、両立にあたって何の問題もない。

6. 5の質問への答えはプラグマティズムか?

プラグマティズムと言うとアメリカを中心に起きた哲学運動の一種と混同されそうなので、そう言うのは避けておくけど、単に「その方が社会がうまく回るし、個人も幸せに近づけると考えるから」という意味において実用主義的、プラグマティックな発想に基づいていると思う。

僕の頭で一つ思いつく解法は、プラグマティズムです。責任という概念をそのように運用するのがもっとも功利的だろう、と考えのもと、責任を運用するぞ、という信念を抱き、その下で(虚構と知りつつ)運用する、というスタンスであるのならば僕に理解ができます。

帰結主義、つまり、帰結を考慮に入れて、責任の扱い方を考える発想は確かに功利主義に近いものがあると思う。このように責任を設定をすれば、このように人は行動することになりそうだ。そんな風に結果の方から逆算して責任のあり方を決めている。天から正しさがアプリオリに降ってくるカントの義務論みたいな発想ではない。この責任概念を倫理と呼ぶことができるのかどうかも怪しい。そういうところは確かにプラグマティズムっぽい。

ぼく自身は、自由意思およびそれに基づいた責任概念の虚構性自体は放棄してしまっても問題はないと思っている。行動主義心理学、SRで考える発想に近い。Stimulus(刺激)が社会からの責任要請で、Response(反応)がそれを受けた人間の行動にあたる。

以上。H君、これで回答になっているだろうか?



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