「寿司テロと承認欲求」3/3
前回、「寿司テロ」のような犯罪ををしてしまう人は、マズローの欲求段階説になぞらえて「承認欲求」の段階を抜けきれず、「自己実現の欲求」の手前で足踏みをしている状態だと書いた。
なぜ「自己実現の欲求」に移行できないのか?
それは「ありのままの自分を承認された経験に乏しい」からだと結論付けざるを得ない。寿司テロ現象はそれを物語っているのだろうと僕は考える。
「ありのままの自分」とは何か?
それは、泣いている自分であり、媚びない自分であり、助けを求める自分だ。掛け値なしの自分を丸ごと受け入れてほしいという欲求が満たされてこそ「自己実現の欲求」に移行できるレディネス(心身の準備性)が備わる。
ところで、今、僕は、五ヶ月の赤ちゃんと接することが多い。先日、僕らの親父世代(昭和初期)の人にその赤ちゃんを見せる機会があった。
むずがる赤ちゃんを抱く娘の姿を見て「抱き癖(だきぐせ)」が話題となった。僕らの親世代の人はこれを言う人が多い。なぜか?
彼らは、高度成長期を生きてきた。男はガムシャラに働き、女は家庭を守り、子どもを多く産んだ。一人の子どもに手をかけられない事情があったが、兄弟が多かったので、それでも何とかなっていた。この国に「発展」という希望を見いだせたからだ。
彼らと50年の差がある今の子育て世代はどうだろう?
若い世代はこの国に漠然とした不安を抱いている。この国は「ありのままの自分」を決して受け入れてはくれないのだろうと感じているし、この国は、私と私の子どもを守ってはくれないのだろうと薄々気づいている。
僕は、その家を出た後、娘に言った。「気にせずどんどん抱けばいい。パパもママも君たちを思う存分抱いた。いつかそれに満足して離れていいくまで。」
泣けば抱いてくれる。親は自分を大切にしてくれる。抱いてくれなければ、拗ねてもかまわない。実際に五ヶ月児は拗ねる。それすらもまばゆいばかりの成長だ。微笑ましい気持ちになる。あなたはあなたのままでいい。
満たされなかった欲求にケリを付けるのは自分しかない。そのことに拗ねて親を恨んでも君は幸せにはなれない。「承認欲求」を乗り越えて「自己実現の欲求」に成熟の段階を移そう。そんな満たされなかった自分を大切にしようとする君を僕は応援する。