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主語をweにすることの怖さ 尊厳死について

お久しぶりです。男娼Dです。


最近話題のALS患者嘱託殺人に関して、異様な言説が巻き起こっているので私の見解も述べておこうと思います。


NHK NEWS
ALS患者 嘱託殺人事件 1年ほど前からSNSでやり取りか


本来の問題は尊厳死のあり方です。それなのに優生思想ダーとか、障害者の方が生きたいと思えるような社会ヲーだとか馬鹿げたことをわめき散らしている人たちのなんと多いことか。

本旨に入る前に優生思想について言及しようと思います。

すでにご存知の方も多いでしょうが、簡単に言ってしまえば、

優生思想とは、優生学に基づいて遺伝子に優劣があると考え、優れた遺伝子は保護を、劣った遺伝子は排除を、と考える思想です。

歴史的にはナチスと関連づけられることが多いですが、アーリア人が優れていて、その血を穢し利益を奪うのがユダヤ人であるとして国家を挙げて大虐殺したということは多くの人が知っているでしょう。

更に言えば、ユダヤ人というヨーロッパ世界(キリスト教世界)の敵をうまく政治に利用した例であると言えます。

しかし優生思想云々と今回の事件の本質は完全に別のところにあります。

何が根本的に間違っているのか

思い出してください。この事件は嘱託殺人です。相模原の障害者施設殺傷事件のようなヘイトクライムとは全くもって毛色が違います。

殺害されたALS患者本人が望んだ結果としての死なのです。

犯人がどんな人間であろうと患者が望んだ死に方です。故人は後悔しているでしょうか。

「この人に殺されて良かった」と考えているでしょうか。

尊厳を持って死ぬということを前にすれば、犯人が誰でどんな人物であるかなど重要ではないのです。

確かに法律で裁くとなればそれも重要となってきます。しかし本質は故人の尊厳です。

優生思想だなんだという議論は全くもってナンセンス、日本にはびこる人権保護の観念が議論を妨害しているだけです。


当事者がどのように人生を終えるかということは当事者の意志によって選択できるべきではないでしょうか。

少なくとも周りが生きるだけで価値がある社会とかいう価値観を押し付けて生きながらえさせることだけは間違っていると思います。

主語をWeにしない

この記事を書くに至った大きな理由が下記の記事です。

死にたい」うのみにしないで 自らもALSの協会副会長「生きたいと言える社会を」 京都嘱託殺人事件

日本ALS協会副会長の増田英明さん(76)が発言している主張にさすがに呆れてしまいました。

この方は何があっても生きたいのでしょう。体が動かず、自分のやりたいこと(あるのかはわかりませんが)も自由にできず、何もできない中の悠久の時間を過ごしてそれでも生きたいと思う(「思える」ではないことが重要)心の強い方なのだと思います。生に向ける情熱は並々ならぬものがあるのでしょう。

しかし、あくまでもこれは彼の「個人的な」意見です。

たとえ目しかうごかせなくなって、それでも目の動きで文字を選びやっとの事で選んだ「死にたい」の4文字であったとしてもその思いを踏みにじって無視をしろと言っているのです。なぜなら死にたいというのが間違っているから死にたいという言葉自体間違っていると考えているからです。


男娼として働いていて

私自身もLGBTについてさらに知見を深めるためにこの業界に入りました。確かに今までからは考えられないほどの人と対話しましたし、様々な経験もしました。しかし、どれだけゲイの苦悩を共有していても、「私たち」にはなれません。どこまで行っても私の主張は結局私のものです。だからこそ、この業界で働いている「私」としての考えを発信していきたいのです。

「私たち」にしてしまうとたちまちあらゆる対立関係を見逃してしまうことになります。

副会長の罪

さて、彼は希望として「生きて欲しい、生きようと当たり前に言い合える社会が必要」と言っています。

しかし結局のところ、そんな社会が実現されたからといって故人は救われたでしょうか。

実際のところは推測するしかできませんが、私はそうではないと思います。

ALSであると診断をされてから明らかに体の機能は低下していき、明らかに死へと近づいていきます。先週できたことができなくなってしまいます。最後には何もできず、呼吸さえも機械に補助されてやっとの事で「生かされる」ことになります。

生きる目的は人それぞれ

なぜ生き続けるのかという問いに対して、1億人いれば1億通りの回答があろうかと思います。

ALS協会の副会長は、何があっても生きたいと考えています。

今回亡くなった当事者は現状と衰えていく将来を見据えて、死と天秤にかけた結果死を選びました。故人のなかでは生きる意味が失われてしまっていたのでしょう。

生きる意味がないと思っている人に「生きろ」だなんて無責任なことは言えません。

ALS協会副会長は、自分だけの主張を「自分たち」にすり替えた

しかし副会長はその無責任さに目を向けることなく発言しました。副会長ですから、ある程度組織としての見解もあろうかと思います。

だからといってまるで故人も自分と同じように考えていたかのように同じ主語の中に組み入れてしまっていいのでしょうか。


結局どこまで行っても個人なのです。

あらゆる人物がいる中でも、「私たち」というグループ作りのせいでそこからあぶれる人が出てきます。

人種・宗教・国家間の争い全ての根源がここにあります。

私は死にたいんだ

私は死にたくないんだ

そんな個々人の思いが許容されるような社会を望みます。

追記

私は決して自殺をよしとはしていません。自殺を安易に選択してしまうのは悲観的になるあまり現実が見えていないことによる間違った選択だと考えています。

しかしALS患者に関しては、直接生死と尊厳が結び付けられます。

そもそも機械に生かされている状態では、自分の力で生きているとは言えません。

言ってしまえば、生きている状態と死んでいる状態が重なっている状態であるとも言えます。

何が言いたいかというと、

動けなくなってからの時間は

人生のアディショナルタイム

だということです。

アディショナルタイムを目一杯使うか、

あるいは早々に切り上げるか、

どちらの洗濯も尊重できる世の中になるといいなと思います。

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