ノンケ男娼 人類皆バイセクシュアル? 愛って???
さてさてお久しぶりです。
最近めっきり更新していませんでしたね。というのもなんやかんやで当事者とあまり十分な対話ができていないために書くことが特になかったのが正直なところです。
しかしながら本日のテーマは「バイセクシュアル」ということで、考えたことなどをつらつらと書いていこうかなと思います。
さて、昨今はLGBTの問題がこれでもかと取り沙汰されていますよね。
こんな記事を読む人はすでにご存知の方も多いかと思いますが、念のためおさらいしておきましょう。
LGB=性的指向
L=レズビアン(女性の同性愛)
G=ゲイセクシュアル(男性の同性愛)
B=バイセクシュアル(両性愛)
これらのカテゴリーは性的指向と呼ばれます。つまり自分がどのような相手を恋愛対象とするかです。
他方で、
T=性自認
T=トランスジェンダー(性同一性障害)
これは自分の身体的な性別と精神的な性別が合致していないと考える人を指します。
もっと簡単に言えば、誰を恋愛対象とするかは関係なく、自分がどのような人間であるかによってカテゴライズされる枠組みとなっています。
LGBTは、「誰が誰を愛するのか」
という問いを中心的なテーマとして存在する新しい男女間、恋愛観を示す枠組みです。
実際のところはLGBT+QIAなどとどんどんカテゴリーが増えているのが実情ですが、それも全て自分が誰で、誰が好きなのかという問いを細分化したものにすぎません。
さて、本題です。人類は皆バイセクシュアルなのでしょうか。
私がこの題を持ち出した背景にはいくつかの検討しなければならない課題が存在しています。
①恋愛の感覚と結婚の感覚は同じか
②結婚のシステムは有用か、あるいは有用であったのか
③効用と人権、どちらを重視するべきか
ここでは問題提起程度に止めようと思います。
私にとって最も大きな問題は、恋愛観と結婚観は同じかという問題です。
よく、「恋」と「愛」は違うとかなんとかわかった風にいう輩がたくさんいます。(かくいう私もその一人なんですが)
そもそも「愛」ってなんですか?
日本語では非常に悩ましい言葉の1つです。
そもそも「愛」(アイ)は音読みですよね。この言葉自体日本人には馴染みのある言葉ではないものです。だからこそ海を越えて導入されたのです。
・・・これ、私のブログのどこかで書いたような気がします。・・・まあ何度でも書きましょう。
もともと「愛」は仏教用語で、満ち足りたいと欲する欲望の心を指しています。つまり、元々は悪徳だったわけですね。
そこにキリスト教的なアガペーや慈悲という言葉が導入されて、今のような「愛」という感覚が生まれたのです。
「愛」はどこまでいっても外来の感覚なんですね。
まず、「愛」というものが普遍的な考え方でないということを再確認する必要があります。
「愛」という感じはいくつかの訓読みを持っていますよね。つまりは感じがもたらされる以前の日本語が持っていた観念体系で、「愛」に相当すると考えられた言葉です。
「いとおしい」や「かなし」だったり「うい」といった訓読みが存在しています。これらはすべて相手を大切にする感情を指す言葉です。
結婚した相手しか「愛」してはいけないの?
さて、少しずつ私の言いたいことが見えてきた方もいるかもしれません。
一対一の結婚システムは西洋から導入された、もっと言えばキリスト教などの世界宗教からもたらされた考え方です。
仏教も近い考え方ですが、そもそも女性と肉欲は完全に悪だと考える宗教なので本来、僧侶は妻帯しません。
本来的な「愛」のあり方自体、一人に限定するようなものではありません。
「性愛を伴うパートナーは特別だ」
そうでしょうか?遺伝子的に最も近いと言われるピグミーチンパンジーのボノボはコミュニティを円滑に回すために、群れの中では同性とも性的なコミュニケーションをとります。
例えば、餌を分け与えるためにセックスをしたり、性器をこすり合わせたりするのだそうです。他にも緊張状態の個体間で、性器を擦り合わせることで緊張を解く効果があると言われています。
我々の救世主はチンパンジー?
人間にも同じような機能があるとは考えられないでしょうか。
つまり、群れ(コミュニティ)の中で子供を育てるようなパートナー意外とも(同性であれば擬似的に)性行為に及ぶことができるのだと考えるとあらゆる疑問が解消するように思います。
同性愛は、人工的な結婚観に絡め取られたひとつの処世術なのではないでしょうか。
本来は仲を深めるためだけだった性行為が、結婚という一対一の価値観が獲得されてしまってからは子供を作るための性行為と混同され、同性に対する感情と結婚のシステムが中途半端な形で内面化されてしまったのだとは考えられないでしょうか。
そもそも性行為にもコミュニケーションの目的と子作りの目的の2つがあることを想定すると、結婚のシステムを超えたところでは男女も何も関係ないと思いませんか?
しかし、同性での関係性を恋愛観という部分に落とし込もうとすると、どうしても齟齬が生じてしまいます。
これは社会的な要因によって獲得される価値観ですから、このような価値観を持っているからといって多様性を認めていこうという方向性自体も考え直さなければなりません。
確かに、同性愛者は実際に存在しています。それらの方々が苦しんでいることもわかります。しかしその苦しみ自体がナンセンスだったら・・・
そのように考えることだっておかしなことではありません。
結婚と愛と、今あるシステムに以下に組み込まれたいかを考えるよりも、今あるシステムのメリットデメリットを検討して、それを超えた考え方をしなければいけないように思うのです。
私個人の結論とはなりますが、だからこそ憲法にて「両性の合意」と表現されているものをわざわざ変える必要なんてないのだと思います。本来の問題はそこにはないのですから。
ただし、子供は作っていくべきであるという考え方と、
結婚しなくてもいいという自由、誰を愛しても何人愛してもいいという生活スタイルとの間に折り合いをつけていく必要があります。
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