越えたい砦
「まだ知らない失語症/もっと知りたい失語症」
序 越えたい砦
「失語症者は、ことばが出てこなくてもどかしい思いをしています」
いつの頃からか、こう言った後に「果たしてこの説明でよかったのか」と思うようになりました。
失語症は脳血管障害の後遺症の1つです。発症するまで当たり前に話していたのに、相手の言っていることがわかりにくくなったり、言いたいことばが口から出てこなくなるなど、その不自由さには個人差があります。
個人差があることも、「もどかしい」と一言でくくってしまってよいものかと迷う理由の一つです。
しかし、一方で「もどかしい」と説明しているのだから、この一言で失語症者の心情を察してほしいという思いもあります。
当の失語症者はどう感じているのでしょうか。
病院でことばのリハビリを担当していますが、失語症の方に尋ねてみると、確かにもどかしさを訴える方もいます。
そうなのですが、一概には言い切れません。
……もどかしいというのとちょっと違う。
……ことばがスラっと出るようになればいいけれど。
失語症ゆえに、自分がどう感じているのかを説明すること自体が困難なこともあります。
また、その失語症の方が、それまでの人生で「もどかしい」をどのような状態で使ってきたのか、ここで「もどかしい」と決定してよいのか、それすらも一人一人違うのではないかと思うようになりました。
このため、失語症者の感覚を「もどかしい」とまとめ上げてしまってよいのか、据わりが悪い感じがしました。
もしかしたら、
私は失語症者は「もどかしい」と感じるはずだ、と決めつけていたのではないか。
こんな疑問が湧いてきました。
◎失語症者の方との交流の中で
上に「もどかしいと説明しているのだから、失語症者の心情を察してほしい」と書きました。失語症の方に代わって、「心情を察してほしい」と訴えること。それを起点にして、周囲の人たちに失語症者のことばの不自由さへの理解を促したい、あるいは促せるに違いない。
だから、 《失語症者は話せなくてもどかしいのだから、ことばで話すことを強要しないでください》 《そして、失語症者は何を言われているのかわからなくてもどかしいのだから、ゆっくり話してください》
特にことばのリハビリの職に就いてから経験が浅い時期は、「失語症者はもどかしい」、そのもどかしさを軽減するために、ことばのリハビリを担当するということが私自身の原動力となっていました。
「ことばのリハビリを行う」という経験を積む中で、失語症の方と接しているうちに、「もどかしい」だけではないことがじわじわと、……「伝わってきた」というより、「入ってきた」感じでした。
従来の失語症者のイメージが「もどかしい」であるとすれば、そこを始まりとして、今度は無理に「もどかしい」に当てはめない、そこから一歩踏み出していいのではないか。
こんなことを思うようになりました。
◎「足場」という考え
一歩踏み出すには、まず足場が必要になるのではないでしょうか。
美学者の伊藤亜紗先生は「情報環世界⁽¹⁾」で「私たち一人ひとりの中にある保守性を認めることが安心して『開く』ことにつながるのではないか。それは別の言い方をすれば、その人が生きてきた時間の厚みを尊重することかもしれません」と語っています。
自分の「足場」があるという「安心」によって、新たな学びに踏み出すことができる。学ぶ土壌が育たなければ、新しいことを学べないのではないか。
卒業式で恩師が、「学びの場所がここにあることを忘れないでほしい」と言ってくれました。この意味を自分なりに解釈するまで、少なからずの年月が必要でした。 表面的に解釈したならば、それぞれの勤務先で「ことばのリハビリ」を担当する中で、困難に直面した時に卒業校に行って相談して問題を解決する、ということで済んだのかもしれません。
卒業を節目にまだまだ学んでよいという切符を手にした、その場所が卒業校だった。今はこのように解釈しています。
恩師が語ったことは、今でも自分が「ことばのリハビリ」を行う上での支えになっていると思います。卒業しても、「ことばのリハビリ」を行うための国家資格を取ったとしても、「ことばのリハビリ」を行うには、知識も技術も何もかも未熟なのはわかっていました。未熟だからこそ、学び続けることが拠りどころであり、正に「足場」となりました。
余談ですが、卒業時、自分もいつかは自分で納得のいくレベルに到達できるはずと思い描いていました。まさかそれから20年以上経っても、学びの途上にいるとは思ってませんでした。「一生学ぶ姿勢が大切」と言えば聞こえがいいのですが、こういうことが言えるのはもっとスゴ腕の人だと思います。
「足場」の話はまだ続きます。
◎ノルマで魅力減退
病院のリハビリテーション科に就職してからも、学ぶ機会はありました。リハビリテーション科での勉強会、職場以外での研修会、関連学会。
多くは、参加する度にワクワクと心が躍ります。新たな知見に出会ったり、抱えていた疑問に進む糸口となったり。
ところが、年月を経て「学びの場」であったはずの、そのいくつかが変わってきたように思います。
同僚が「リハビリテーション科スタッフは毎年1つは研修に参加して、スタッフに伝達講習をするように」と、活き活きとノルマを掲げる姿を見ることがありました。
人から言われて、半ば強制されて研修に参加して興味が湧くのかと、疑問になりました。
ノルマは、作る側には理にかなったことなのでしょう。しかし、ノルマ化されることで、「学び」の魅力は失われるように見えます。
目標を与えられれば、目標に向かって邁進する。目標がいつの間にかノルマをこなすことにすり替わってしまったと思うのは、私が変わったからなのかもしれません。
◎再び「足場」
「学びの場」の情報を入手困難な人には、(SNSが発達している今、それほど難しくはないのではないかと思いますが……)、ノルマ化という目標を提示されることで、研修会に参加する機会を得ることができるのかもしれません。
私には「足場」となった「学びの場」があったので、「ノルマ化された学び」から安心して踏み出すことができたのだと思います。
◎「越えたい砦」とは
ここで 冒頭に戻ります。
「失語症者は、ことばが出てこなくてもどかしい思いをしています」
習った失語症者像をこのようにまとめ上げて、失語症者に寄り添っているつもりでした。
いつのころからか、
実際の失語症者の状態を、習った事項に当てはめすぎでいるのではないか
と思うようになりました。
「言語病理学診断法」の著者の偉大なフレデリック・ダーレー先生が、診断過程で患者さんの特定の問題にレッテルを貼ることだけに終わることを危惧していた⁽²⁾のは、ここにも言い得るのかもしれません。
ダーレー先生のことばをお借りするならば、失語症者に「もどかしい」とレッテルを貼っているのではないか、となります。
「習った事項に当てはめすぎている」と自分に疑いをかけると、失語症者について「まだ知らない」ことがあるはずで、「ことばのリハビリ」に20年も携わっているのにと、焦りそうになります。焦るということは「まだ知りたい」からだと思うと、今度は落ち着きました。
「まだ知りたいこと」が、必ずしも医療領域にあたる失語症の症状やリハビリ方法になるわけではありません。 思い込みに囚われていたことから、自分は失語症者をどう捉えるのだろう。失語症者への思い込み解きほぐれることで、失語症者を知る可能性が広がるかもしれない。砦から踏み出すような感じだと思います。
こんな あてずっぽうを携えて、少しずつ書き始めることにしました。
2021年1月27日
*参考文献
(1) 「情報環世界:身体をAIの間であそぶガイドブック」:渡邊淳司、伊藤亜紗、ドミニク・チェンほか 2019 NTT出版
(2)言語病理学診断法:フレデリック・ダーレー編著 協同医書出版社 昭和57年