上履きの苦い思い出
小学一年生。
入学式を終えてしばらく経ったある日。
いつものように登校した私は、下駄箱で上履きに履き替えていた。
その履き替えた靴を見てクラスメイトが言った。
「きんにくちゃんのそれ外履き!教室は土足だめなのに。」
私の上履きはみんなが履いているようなものではなかった。
昭和50年代の私が通う小学校のスタイルは、上履きも外履きも選択の余地はなく学校から指定されていたように思う。
外履きは白のスニーカー、上履きは男子は青で女子は赤のバレーシューズ。
当時はこの二色しかなかったよね。
男女で色分けされてね、今思えば多様性なんてあったもんじゃない。
今のバレーシューズはカラフルだよね。
もし履くなら紫か黄色がいいな。
履く機会はないけども。
私もみんなと同じ上履きを履きたかったのだが、履けないのは理由があった。
入学前、制服やランドセルを準備していた母が言った。
「上履き、間違えてこんなん買うてしもたわ。けど上履きには違いないから学校で履きなさいよ。」
こんなん買うてしもたって⤴️(笑)白やん。
その頃の私は、今にも増してボーーーーーっとしてる子供だったので、いいともいやとも思うこともなく、親に言われるがままに、赤くも青くもないパッと見外履きにも見えそうな上履きを履くことになった。
クラスメイトが私の履いているものを、外履きと思ったのも無理はない。
あの頃は、みな同じ制服を着て同じ靴を履き同じような手提げカバンを持っていた。
そんな統一された状態で、一人だけ上履きが白く外履きのようなもの……
悪目立ち(;´д`)
クラスメイトたちに、あかんのにぃー!先生にいいつけるー!おかしい!バイキン!バイきんにく!とか口々に言われ、悲しく惨めになった。
しかし、私には言い返すほどの度胸もなかったし、泣くこともできずただひたすらに小さくなっていた。
人と違うと言うだけで、こんなにも祭り上げられるのかと怖かった。
途端に女子の赤い上履きが羨ましく眩しく映った。
もうあんなこと言われたくないな……
赤い上履きさえ履ければ、いいんだけどな……
学校から帰ってすぐに母に言った。
「わたし、今日学校で上履き履いてんのに外履きはいてるって言われた。」
こう言えばにきっと赤い上履きを買ってくれる、と思いきや、
「え?あれは上履きなのにねぇ、困ったねえ。
じゃあ、先生に言うとくわね。」
エ(;・∀・)ソウジャナイ
母親の圧力に圧されて嫌とは言えなかった。
……。
赤い上履きに交換することはなく、母が担任の先生に電話して了承してもらっただけであった。
確かに先生からは、履いていていいからねとは言ってもらったけれど、クラスメイトからのイヤミやばい菌扱いはしばらく止むことは無かった。
母の言う
「まだまだ履けるんだから!」
の言葉に、幼いながらも買い換えるにはお金がかかるんだと解釈をした。
わがまま言うことはできないんだなと。
本当は赤い上履きが欲しかったし、何よりも他の子たちと同じようにしたかったという希望は心の中にしまうしか無かった。
他の子たちと同じようにしていたら、悪目立ちもせず平和に学校生活が送れる気がしていたのだ。
いかにも、気の弱い日本人気質の小学1年生だな(笑)
クラスメイトからは言われっぱなしで反論も反逆も出来ないし、親に泣きつくことも出来ず、ましてや先生に訴えることも出来ない。
気弱な子供ゆえに…。
思い出すと心が痛い.・゜゜・(/。\)・゜゜・.
そのうち足が成長し、上履きが窮屈になり念願の赤い上履きを買って貰えたのだが、その頃には外履き履いたバイキンにくちゃんとは言われなくなっていた。
子供って残酷で飽き性よねぇ。
未だに真っ白の上履きを見るとあのころを思い出しみぞおちが痛いんだよね。
母はこんなこと覚えてもないだろうけどな。
って、母のことを考えた瞬間、
「私も娘に同じような対応をしていなかっただろうか…?」
と考えてしまう。
娘は娘でとらえ方は違うのだから、無理に終わった過去の子育てを心配しても仕方ないのだろうけど。
ちょうど今、放送大学で発達心理学を学んでるから否が応でも自分の子供時代とか、娘の幼少期とかを振り返ってしまう。
子育てって難しいよねw