さよならポエジー
ずっと、生きて行くことへの焦燥感に追われ何をしても劣等感がなくなることはなく、誰かになりたいと願うことばかりの人生だ。
いつだって隣の芝生は青くて、それだけなのに。
そんな私の中にさよならポエジーという愛してやまないロックバンドの音楽はいつも“すり抜けていく”
音楽が“刺さる”という表現は割とよくあるが、さよならポエジーを考えた時にそれは自分の中でピンと来なかった。
彼らの音楽が真っ直ぐで正面からぶつかってくるような音楽ではなく、後ろから背中を押してくれるような音楽でもなく、ただ日常であるからかもしれない。
このバンドの最大の魅力は、歌詞だ。これは彼らを好きな人の多くがそう答えるだろう。
オサキアユ(敬称略)の感性と彼自身の才能で紡ぐ歌詞は唯一無二だ。
私が抱えたような焦燥感や劣等感を抱えているように聴こえた。
でも鬱を抱えていて焦燥感が心を走り続けていても、誰にもなれないから自分でもがいて上手く生きていくしかないこと。
どこかで分かっていたことを歌ってくれたバンドだ。
応援というよりは、祈りのように。
それは真っ直ぐな応援音楽より押し付けがなく呼吸がしやすかった。
押し付けがない音楽は、語尾にも表されている。
そして、歌詞の中でも情景が浮かぶことに心地良さを感じた。情景を言葉にする事ってとても難しいから。さよならポエジーの音楽で浮かぶ情景はあまりにも私が現実や頭の中で見たことのある生活の一部だった。
難しい言葉も多い。ただ難しい言葉を繋いだだけではない。文学的であり短編小説のようで思わず歌詞カードを開きたくなるような“作品”だ。
それは私の日常となり景色となり体内をすり抜けては色をくれた。
きっと大多数の共感は得られないだろうし、大多数がこの音楽に共感していたら世界は回らないだろうなとも思う。
届くべき人に届いてほしいと彼らの音楽から離れられなくなった私は願ってしまう。
ただ、ここまで歌詞が魅力的な彼らのライブの爆音はギターロックだ。
だからもっと多くの人に見てほしいとも願う。
ライブの中で、音楽で世界観を描く、魅せる。
これを見ている側が感じられる事って本当に魅力的だから。歌詞の共感のみが音楽ではないから。
矛盾したことを言っているが、気になった人がいたら一度どんな形でもさよならポエジーに触れてほしい。合うか合わないかはそのあと好きなように決めていいから。
来年には新しいアルバムが出るしツアーもあるそうだ。今の確かな生きる希望である。
きっとこれからも私は音楽があっても特に変われず難しく生きてしまうが、さよならポエジーと生きていく事が出来る。
救われたって表現はあまり使いたくないなと思うがこれしか当てはまらない。私の語彙がないせい。
この感性のままで生き抜こうと思わせてくれたことがこんなにも誰かの人生肯定になっている事実がいつか彼らに届きますように。いや届かなくてもいい。
私が勝手に愛し息を続けるから、まだ音楽をしていてほしい。
上手く 生きていこう。
サブスク配信は現在していないですが、
大好きな曲がYouTubeにあります。
概要欄に歌詞もあるので、あなたが良ければ。
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