文学全集をよみすすめる 001
なぜこんなことをするのか。
なぜ山に登るか、と問われて「そこに山があるから」と答えた御仁がいたらしい。とても純粋なやつだったのだろう。でなければ何も考えていないバカに違いない。
今回のプロジェクトもそれと同じだ。そしておそらくわたしは後者だ。さて、いきなりの展開で恐縮だが我が家には文学全集がある。たいして本などない家にもかかわらず、すさまじい巻数の文学全集が本棚に鎮座している。占拠といってもいいだろう。そしておそらく私が読まなければこのまま一度も光があたらないページをたくさん残したまま古紙になるはずだ。そうだ。古書ではなく古紙だ。文学全集は売れない。どれだけ新品同様であっても(そして大抵は新品同様だ)古書店は引き取らない。ブックオフでも引き取らない。場所ばかりとるくせにまったく売れないからだ。このまえためしに古書店の知り合いに聞いてみたらそれはそれは嫌そうな顔をされた。斯様に全集の引き取りは長年築き上げてきた信頼関係までをも破壊するのだ。
図書館に持ってゆくのもやめた方がいい。たいていの全集はすでにある。目に触れないのは棚に入りきらないから閉架書庫に入れてあるだけにすぎない。引き取りを断られ、捨てるにも金がかかるからという気持ちを隠し、本を愛する市民のような顔をしてもったいぶって寄贈を申し出ても10000000%喜ばれない。
もう全集は鈍器として使うくらいしかないのかもしれない。
わたしたちの父親の世代は娯楽が少なかった。まわりにも本を読む人がたくさんいて、本を読むことが当たり前で、しかも読むべきものを読んでいないと驚かれ、あきれられ、怒られた時代だった。床の間にはなぜか百科事典があった。ブリタニカのやつだ。あの時代は「割販販売」というものがまだあって、自宅に本屋が訪問販売に来た。うちにもあった。完結するころには「アイ-イギリスシ」あたりの情報は古臭くて使えなかった。
さて、話を文学全集にもどそう。そんなことを考えながら背表紙を見ていたら全集たちが愛おしくなった。「一度も光を見ないうちにトイペになるのは嫌だよぉ」という声まで聞こえた、気がした。
よしよしわかった、ならば読もうではないか。これがいままでのいきさつだ。やっぱりバカみたいだが、やれるだけやってみようと思う。