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ゲルギエフの「沈黙」と2004年9月4日

 20年前のこの日、ゲルギエフは泣きながら指揮をしていたといわれています。その時の録音はCDになっています。 

 ゲルギエフがウィーン・フィルとチャイコフスキーの交響曲第6番を録音していた2004年9月はじめ。まさにその時、彼の故郷で凄惨な事件がおきていました。

ベスランの悲劇とゲルギエフ

 2004年9月1日、ロシア・北オセチア共和国のベスラン第一中学校で、始業式が行われていた体育館に、隣国チェチェンの独立派武装勢力が侵入し、約千人を人質にたてこもりました。
 交渉が膠着する中、3日に原因不明の爆発が発生し、それを期にロシア特殊部隊が突入。激しい銃撃戦となり、最終的には死者・行方不明者500人以上の大惨事となりました。死傷者の大半は子どもたちでした(詳しい経過はWikipediaなどを参照ください)。

 ウィーンでの演奏会は、その翌日だったのです。

ゲルギエフの故郷への思い

 ゲルギエフは生まれこそモスクワですが、両親ともオセット人であり、子ども時代に住んでいた故郷オセチアへ熱い思いを常々語ってきました。彼が1996年にマリインスキー劇場管弦楽団を率いて故郷に錦を飾った際に、それを取材してドキュメンタリー番組を制作した、NHK元モスクワ特派員で彼の親友でもある小林和男さんの本(『希望を振る指揮者ーゲルギエフと波乱のロシア』)にも、そのことが詳しく書かれています。

 彼はこの時に、ぎっしりつまった訪問日程を割いて車で悪路を飛ばして取材班を自分の思い出の山に連れていき、家族や故郷への思いを語っています。芸術家としての彼の根底にあるものに対して、深い思いを感じざるを得ません。

「山の天気は急変する。山は時として人間を飲み込む。山で暮らすには危険に対処する力が必要だ。危険は人間を鍛えてくれる。危機の時どう対処すべきかの判断力を養ってくれたのは、こんな自然環境だった」
「僕が14歳の時に父親が亡くなった。しかしその悲劇が僕を育ててくれた。姉妹と母を守らなければならない男の気持ちを分かってくれるだろうか」
「指揮者にとっては人間関係が特に重要だ。急に嵐に見舞われるような自然環境で育ったことも、家庭に家族を大切にする人間関係の良い雰囲気があったことも今の僕に影響したと思う」

 その彼が、故郷の悲劇に冷静でいられなかったのは当然でしょう。演奏そのものはさすがウィーン・フィルで、指揮者が動揺しているからといって音楽そのものが崩れたりはしません(もちろん、修正もされているでしょうが)。しかし、この事実を知ってしまうと、この演奏に特段の重みを感じてしまうのは、なかなか避けられないのも確かです。

 この事件は、チェチェン独立派をロシアが軍事力で殲滅しようとしているさなかにおきました。ムスリムが多数を占め独立志向の強い周辺の他の連邦内共和国と異なり、正教徒が多くロシアと敵対的でない北オセチアは、ロシアによるチェチェン攻撃の一つの拠点とされてきました。それゆえ日本を含む西側では、ロシアによるチェチェンへの強硬姿勢が事件の原因であり、多数の犠牲者がでたのも、ロシア特殊部隊の稚拙な対応のせいだという非難が見られました。地元にもそういう声はあるようです。しかし、非武装の民間人、とりわけ子どもたちを人質にとることが、何の目的であれ許されないのは自明です。

 ゲルギエフはその後、遺族や負傷者を支援するためのチャリティ・コンサートを各地で開きました。同じチャイコフスキーの「悲愴」。第1楽章の終わり近くの激しい表現に、どうしても強い慟哭を聴いてしまいます。こうした演奏を通じて、彼の故郷に対する思いがいっそう強くなっていったであろうと考えても、それほど突飛な空想ではないでしょう。

南オセチア紛争で西側の不信をかったゲルギエフ

 そんななかで2008年、グルジア(ジョージア)が南オセチアに進攻、第二次南オセチア紛争が起こります。最終的にグルジア軍がロシア・オセチア連合軍によって駆逐されたあと、ゲルギエフは南オセチアの首都ツヒンヴァリにオーケストラを伴って乗り込み、ショスタコーヴィチの交響曲第7番ほかを、破壊された議会議事堂前で演奏しました。

 この行為が、今に至る西側におけるゲルギエフに対する政治的不信感、つまり「プーチンの手先」というイメージの原点ではないかと思います。
 恥ずかしながら私自身もこの時、自分の最も愛する曲の一つが汚されたような気がして、まだホールが空席だらけだったころからずっと欠かさなかった彼の来日公演に行かなくなったりしていました。彼の音楽に心酔していたのに、その根底にあるものに目をむけなかったのは浅はかでした。

 さて、このゲルギエフの行為について話すためには、少し長い説明を要します。

オセチアの歴史

 オセット人はもともと、カフカース(コーカサス)山脈の南北に住んでいましたが、ソ連時代に南北が別な自治地域としてロシアとグルジアに分割されました。そのころは当然、ソ連の「国内」として南北の行き来もできていたので、それほど問題は生じていなかったようです。
 ソ連崩壊で事情が変わります。ソ連時代、北オセチアはロシア連邦内の共和国として一定の自治権を認められていましたが、グルジアでは自治州の位置づけで、オセット人は圧迫を感じていたようです。1989年にはグルジア人が南オセチアで示威行進を行い、死者も出ています。ソ連崩壊で大きな枠組みがなくなり、グルジアの一部とされてしまうことを怖れたオセット人の武装勢力は、1991年からグルジアとのあいだで独立を志向して軍事衝突を起こします。これが第一次南オセチア紛争です。
 最終的には1992年に協定が結ばれ、南オセチアはロシア・グルジア・オセチア三者による平和維持軍の保護下で事実上独立します。当時はロシアを含めどの国も「独立」を承認しませんでしたが、グルジア政府の支配が及ばず、独自の憲法を制定し、独自の大統領を選出して独自の行政を敷いていました。これでいったん安定が達成されます。

 ところが、2008年にグルジアは突如南オセチアに進攻し、ツヒンヴァリも占領します。その際平和維持軍として駐留していたロシア軍も攻撃されたため反撃し、逆にロシア軍が南オセチア領域を越えてグルジア領内に侵入します。この時当初はグルジア側の発表が西側では先行して報じられ、「ロシアがグルジアへ侵攻」と非難一色になりました。しかし現在ではグルジアが先に南オセチアへ進攻したという認識が強くなっています。
 戦闘そのものは数週間で終結し、結局南オセチアは若干の支配領域の変動はあったようですが、「独立」を維持します。ただロシアでは議会が大統領に要求する形で、南オセチアと、同じく事実上グルジアから独立していたアブハジアの国家承認を行います。これでグルジアはロシアと断交します。

ゲルギエフへの視線

 ゲルギエフがツヒンヴァリに乗り込んで演奏したのは、こういう経過のなかでした。もちろん、ロシアのオセチアへの関与を単に善意としてとらえるのは無理があり、ロシア自身の国家戦略による判断があったでしょう。それでも結果的には、南オセチアにとってはグルジアの侵略からの解放でした。彼自身は北オセチアに住む一族の出身ですが、同じオセット人として、それを称揚しようとする意思があったのはまちがいないでしょう。決して、単にプーチンのお先棒を担いだだけではないはずです。

 そうとらえることによって、彼の行為への見方は変わってこないでしょうか。
 南オセチアとアブハジアを、ロシアはグルジアから奪おうとしているので、その味方をしたゲルギエフは侵略者の手先だ、というのが西側における評価だったと思います。しかし、少なくとも南オセチアについては、彼は民族的には当事者です。音楽家が自民族の独立や誇りを称え、闘いを高揚させようとすることは、シベリウスの「フィンランディア」を例に出すまでもなく、肯定的にとらえられてきたはずです。にもかかわらず、ロシアが後ろにいるオセチアの「独立」はダメで、それを支持するゲルギエフもダメ、ということのようです。

クリミア併合問題

 2014年のウクライナ騒乱をきっかけに、クリミアをロシアが併合しました。これに賛同するロシア芸術家の声明にゲルギエフも賛同したと伝えられ、もともとプーチンと親しい(若いころからの個人的知人であったのは事実)とみなされていた彼に対する批判的視線は強まりました。彼は「賛同していていない」と言っているのですが、無視されています(このインタビューは他にもいろいろ興味深いので、ぜひ読んでください。プーチンとの関係も率直に話されています)。

ゲルギエフの沈黙と排除~ウクライナ紛争以後

 そして、ウクライナ紛争の開戦後、ゲルギエフは西側でのポストを次々と奪われ、演奏の機会もなくなりました。彼がプーチンを非難しない、あるいはプーチンと関係を断つと表明しない、というのがその理由になっています。
 もともと就任時にもクリミア併合問題でひと悶着あったミュンヘン・フィルでは、市長が解任を発表した際に、楽団員からは拍手が起こったそうです。
 ゲルギエフが世界的オーケストラに育てたといってよいロッテルダム・フィルも、彼に対し感謝の言葉一つなしに、関係を断つことを表明しました。
 ゲルギエフは、ロシアのウクライナ進攻を支持する発言は、少なくとも公式にはしていません。しかし、それでは不十分だと、明確にプーチンを非難し、進攻に反対しなければ許されない、と言われているのです。

そもそも、音楽家に踏み絵を踏ませてよいのか

 私見を述べると、そもそも芸術家に対して「踏み絵」を迫ること自体、私は許せないと思っています。先日スヴェトラーノフについて書きましたが、1968年のチェコ事件の時、プロムスの主催者はソ連国立交響楽団の演奏会をキャンセルしませんでした。聴衆は「ソ連の代表」であるオーケストラに対して非難の声こそ浴びせましたが、針の筵に座ることを覚悟してステージに立ったオーケストラの演奏に対しては敬意を払い、そしてそこで作り出された音楽に対しては、満場の拍手をもって報いました。
 主催者、オーケストラ、指揮者、聴衆のすべてが事態と音楽に対して真摯に向き合ったその姿勢を、ゲルギエフを解任しキャンセルした人たちから感じることはできません。人々は、半世紀前より後退してしまったのでしょうか?

ゲルギエフの「沈黙」をうけとめるということ

 その一般論と同時に、ゲルギエフの「沈黙」の重さを、誰も理解しようとしなかったことを、とても残念に思っています。
 彼が沈黙している以上、本当に何考えているのかを推し量るすべはありません。しかし、彼はウクライナ進攻を支持するとは明言していません。他方でオセチアをめぐる経過や、マリインスキー劇場を政府の支持によって発展させてきたことからすれば、彼がプーチンやロシア政府を簡単に切り捨てるわけにはいかないはずです。少なくとも、部外者はそこまで考えて彼に対するべきではないのか、そう思えてならないのです。

 ゲルギエフはPMFをはじめ、「平和」を掲げた活動にもいろいろかかわってきました。また、ロシア・グルジア関係が悪化しているなかでも、グルジア出身のピアニストであるアレクサンドル・トラーゼと親交を保ち、共に愛するプロコフィエフの協奏曲を繰り返し共演してきました(ゲルギエフが音楽祭を主宰していたフィンランド・ミッケリの方による、トラーゼ追悼演奏会のYoutubeへのコメントをご参照ください)。
 また、彼は繰り返し音楽家に政治的立場を求めるべきでないことを表明しています。ロシアによるクリミア併合に賛同したと報じられたことを否定した先のインタビューのなかでも、そう強調しています。そういう姿勢と、祖国やマリインスキー劇場への思いとの相克のなかに、今の「沈黙」があるのだと、どれだけの人が認識しているのでしょうか

おわりに

 個々人が、個々の音楽家をどう思うかは自由です。しかし、直接犯罪や非倫理的行為を行なったわけではなく、進攻を明確に支持したわけですらなく、単に政治的に「正義の側に立たない」というだけで、ここまで組織的な排除をしていいとは、どうしても思えないのです。

 ちなみに、プーチンと個人的関係があるとは思えないソヒエフも、市長によるウクライナ進攻非難の強要を拒否して、トゥールーズ・キャピトル管弦楽団の音楽監督を自ら辞しました。彼は同時にボリショイ劇場の監督も辞めたので、「中立」と見られたのか今も西側で活動できています。しかし、彼がトゥールーズ管を辞任した時の血涙くだるメッセージは、明確に「踏み絵」を拒否しています。そう、彼もまた、オセチアの出身なのです。

 9月4日からだいぶたってしまいましたが、ベスランの悲劇から20年、というニュースを見て、2022年にTwitter(X)に書いたゲルギエフについての文章を書きなおしてみました。
 私はロシア語も読めないので、ゲルギエフ自身のロシア国内での発言などを全部検証できるわけではありません。しかし、こうやってまとめてみると、彼の背後にある事実の経過を見るだけでも、彼の「沈黙」の重さを感じることはできるし、たとえ彼を非難しキャンセルするとしても、その「重さ」にむきあったうえでそうしてほしい、と改めて強く感じました。
 後半は自分の思いが先走ってしまってよいノートにはなっていませんが、タイミングもどんどんずれてしまうので、とりあえずここでいったん打ち止めにします。

追記(2024/10/26)
 ソヒエフが、10月20日にミュンヘン・フィルに客演したそうです。
 もちろんソヒエフは単に出身が同じというだけでゲルギエフに遠慮する理由はないのですが、双方どんな思いだったのか、特に何もないのか。多少気になります。


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