短編小説「失うことの感情」
「お兄ちゃん、どうしてるかな」
私の部屋に飾ってある写真を見て姉がつぶやいた。
「実はね、この間、メッセージが来たの」
「え?」
姉の私とは似つかない大きな瞳を見開いて驚いていた。
「お兄ちゃんから?!」
「うん」
「いつ?!」
「2か月前くらい。突然連絡がきてびっくりした」
その時の私も、今の姉のようにとても驚いた。
「なんで早く私たちに言わなかったの?」
「お兄ちゃんに、家族には言わないでって言われたから、」
「だからって」
「私も言わなきゃって思ったんだけどさ、言って余計に険悪ムードになったら嫌だしって考えてたら、時間がたっちゃって。でも家族でお兄ちゃんの話題が出たら絶対言おうと思ってた、だから今言ったんだよ」
そうだったのね、と姉も納得してくれた。
「でもよかった、お兄ちゃん、完全に私たち家族と縁を切ったんだと思ってたから」
兄が家を出て行った日、私は家を空けていた。帰ってきたときには家が今までにないくらい、暗く重い空気が流れていたのを今でも鮮明に覚えている。
3年も前のことだ。
「ただいまー」
いつもなら玄関まで走って出迎えてくれる姉は来ないし、兄以外のこの家の全員の靴が玄関にあるのに、それでもまるで誰もいないみたいに静かだった。これが俗にいう不穏な空気か、とその時は暢気に思っていた。
リビングに到着し、この家が今とんでもなく異常事態にあること気づく。いつもならテレビ番組を見ながら賑やかなひと時を過ごしているに違いない空間。それが沈黙と怒りにあふれた異常な空間になっていた。一瞬、ここがどこか分からなくなった。
「どうしたの?なんかあった?」
そう聞くと、母が信じられないことを口にした。
「この家は今日から4人家族です」
「え?どういう意味?」
問いかけたが、この場の異常な空気とその言葉で何となくの察しはついた。
兄が家族を怒らせて追い出された。それは分かったが、何をしたのか見当もつかない。
「お兄ちゃんに何があったの?」
私はもう一度問いかけてみる。
「この家は4人家族だ。それだけだ」
父のその追い打ちの言葉で、もう5人家族には戻れないのだと絶望した。
それから何があったのか詳しく訊こうとしたしたが、父も母ももうあいつの話はするなと言って部屋を出て行ってしまった。姉の目に溜まりきった涙は、抑えていた声とともに、重たい空気の中に舞った。
その日の夜、少し落ち着いた姉から一部始終を聞いた。兄の失踪の原因は友人の借金を抱えたことで、その人はギャンブル依存症だったうえに兄に保証人として印を押させた瞬間に音信不通になった。それを聞いた父は、家族に迷惑をかけるなら出て行けと勘当し、兄は家を出ていった。
「お父さんとお母さんはお兄ちゃんのこと、どう思っているんだろう」
私は2年前に就職した時から一人暮らしを始めていたので母と父が普段兄のことを気にかけているか知る由もなかった。
「相変わらず、お兄ちゃんの話題は一切出ないよ。私からお兄ちゃんの話題を出すのも気が引けてできないし」
「そっか」
「…確かに、お父さんとお母さんに、どう伝えるか、迷うね。」
「そうでしょう」
「今までひとりで悩んでたのか、しんどかったね」
その姉の言葉で、なぜか私の目から涙がこぼれた。
私たち兄妹はずっと仲が良かった。末っ子の私は、2人にだいぶかわいがられたと思う。
なんでも完ぺきにこなす、いつも明るくて元気なお姉ちゃんに、不器用だけど強くて逞しくて頼りになるお兄ちゃん。
どちらも大好きで自慢の兄妹だ。
だから余計に、兄がいなくなったことが、大事な家族を失ったことが、辛く悲しかった。あの日からあの家は私にとって虚な空間となり、喪失感はいつまでたっても拭えなかった。
だから、私は就職先をわざと実家から少し遠いところに決めた。兄がいなくなったあの家にいるのが耐えられなかったから。家族にはそこしか内定がもらえなかったと適当な嘘をついて、実家から出ることを選んだ。
「今日は一緒に、お家帰ろう。お父さんとお母さんにお兄ちゃんのことちゃんと話そう」
「うん」
「戻ってきてくれたらいいね」
「本当に」
実家に帰るのは久々だった。私の家からは電車で1時間半。すぐに帰れる場所にあるけどなかなか帰る機会は少ない。姉がしょっちゅう泊まりに来てくれるから寂しくならないし、両親も私の様子を姉から聞いているので、特に心配をすることはない。
家の前に着くと、扉が半分開いていた。
とても嫌な予感がした。兄に今日は姉が泊まりに来るとをメッセージしていたのだ。ありえないようなストーリーが頭の中で繰り広げられる。そんなことあるはずないとその妄想を払拭し、家に入ろうとした瞬間、中から扉が完全に開けられた。
扉の先には血だらけの兄が佇んでいた。やせ細り、うつろな目をした兄がそこに立っている。
私たちは一瞬で何が起きたか理解できてしまった。姉はパニックになり、兄を押し退けて部屋の中に飛び込んだ。私は恐怖で体が硬直し、その場から動けなかった。
部屋の奥で姉の悲鳴が聞こえた瞬間、兄はその声が近所に聞こえるのを恐れたように慌てて部屋の中に飛び込んだ。そして間もなく姉の悲鳴は口をふさがれたように籠り、何かを恐れるような声に変わり、より大きくなった声が高く短く響いた次の瞬間、姉の声が消えた。
私はその場に座り込んだ。
あんなに大きな叫び声だったのに近所の人が見にくる気配はなかった。私の鼓膜にだけ大きく響いていたのだろうか。
私のすぐ後ろには何でもない普通の日常が流れる住宅街で、目の前にあるのはおぞましい非日常の世界。
少しの沈黙の後、シャワーの音がかすかに聞こえた。その音に安心感を覚える。しばらくして、父の白いシャツにジーンズを履いた兄が大きなボストンバッグを持って目の前まで来た。
私を見る兄の顔がゆっくりと穏やかになっていく。そして優しい声で、私に手を差し伸べながら言う。
「ただいま」
私は兄の手を取りながらようやく立ち上がる。
「おかえり」
「お前だけ、お前だけなら俺のこと分かってくれると思った」
「分かるよお兄ちゃんのことは全部」
「行こうか。行く当てもない逃避行だけど」
「お兄ちゃんと一緒ならどこへでも行けるよ」
私は頭がおかしくなったような気がする。大事な家族を失ったはずなのに辛くも、悲しくもない。むしろ兄と2人きりになれたことがとても嬉しかった。
私たち2人は不器用な兄妹。
完ぺきが正義のあの人たちはもういない。もう私たちはなんでも完ぺきにこなすあの人と比べられることもない。劣等感にさいなまれることなく、明日を迎えられる。
そして、私は事実を口にする。
「この家は今日から2人家族です」
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