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「アル中ばあちゃん」①

 私は生まれた時から、家にアル中の祖母が居た。後に聞いた話、祖母の飲酒は小学生の頃から始まっていたとか、大失恋した祖父が勢いでアル中の祖母と結婚し物凄く後悔したとか、3人目の妊娠を知った時「もう子供はいらない」と橋から川へ飛び込んだとか…。

飲んでは暴れ、飲んでは近所の人に迷惑をかけ、飲んでは「殺せ」「死んでやる」「化けて出てきてやる」だのと騒ぎ、私たちを苦しめた祖母の知らない過去もまた、何ともハードなものだった。

 

 私の中で、アル中祖母の行動は、父…つまり祖母にとって[息子]、が生きていた頃は暴れていたイメージが強い。一方で、[息子]に先立たれた後は、より一層『自分の居場所』を確保することに必死になっているような感じだった。

例えば…、
夜中の2時頃に起床し、電気を消した真っ暗いリビングのソファーに座って陣取っている。ちなみに、祖母は認知症ではないため、昼夜逆転をしている訳でもなく、見当識障害(場所や時間、人が正しく認識できない)が出ている訳でもない。ただ、家の中に自分の居場所を誰にも取られないように陣取っているのだ。

祖母の1日の流れはこうだった。

早朝2時頃に起床し洗濯をする。冬場は、ふと見た洗濯物たちがパキパキに凍っているのが日常だった。私たちの分もなぜか洗濯してしまうため、おパンティもパキパキだった。

朝食は、日が昇る前に食べているようだった。そして、どこかへ出かける訳でもないのに毎日欠かさずNHKの天気予報を見ていた。私たちが別の番組を見ていたとしても、

「ちょっと見せい」

とチャンネルを変えてきて、

「雨30%か」

と特に降水確率を確認していた。そう、洗濯物が濡れてはいけないからだ。祖母は、衣類の洗濯や食器洗い、庭の草むしりに異常に執着していた。

そして10時頃に昼食を食べて、お昼の「おもいッきりテレビ」を見たり「あなたの知らない世界」を見たり、それから「水戸黄門」「遠山の金さん」など時代劇を見て、、、明るいうちにお風呂に入り、

16時頃には夕飯を食べて床に着くという流れだった。

だから、私たちがお風呂に入る頃はもちろんお湯も冷めていたし、夜更かししてそれはそれは面白い深夜番組をヘラヘラ笑って観ていると、突然リビングのドアが開き

「なんや!まだ起きてんか!」

とシワ枯れた声で背後から声を掛けられ「化け物か‼︎」とビックリ…いや、ゾッとするという事を何度も経験した。

同じ流れで日々を過ごしながらも、まれに近所のお婆さんが話に来ることもあり、お茶を飲むこともあった。その時は、あまり見たことのない笑顔の祖母がいた。まあ、そのご近所さんが帰った後は、悪口のオンパレードだったけれど…。
ほとんどが同じ流れの日々で、ほとんどが一人で過ごすことが多かった。

 あまりにもアル中祖母の暴れっぷりが酷かったときは、祖母と離れて暮らした時期もあった。母の実家にお世話になったり、団地を借りて暮らしたりした。家を建ててからは祖母も加えて暮らしたが、離れて暮らしているとき私には[1つの仕事]があった。

それは、アル中祖母へ[おかず]を届けるということだった。父と母が経営していたスーパーと宴会場が1つになった店で、夕方になると母が祖母用に食事を用意した。それを店の向かいにある祖母の家…、もともとは私たちも暮らしていた家へ[おかず]を運び、縁側からドアをノックして祖母へ渡すっという仕事だった。全ての時間が早い祖母は、玄関の鍵を閉める時間もそれはそれは早く、お茶の間と祖母の寝室どちらへも声が届きやすい縁側からドアをノックする必要があった。それは、幼少期から中学1年生まで続いた。

その時の祖母は、酒を飲んでいても、酒が残っていても割と機嫌よく、そして少しの猫なで声で

「わざわざ、ええのに。おおきに」

と決まったセリフを言っていた。この[仕事]を担当していたためか、私はアル中祖母から可愛がられた方だった。姉にはない、子どもの頃の祖母との思い出があった。


〜   すべてが私の一部 〜
「アル中ばあちゃん」②へ続く