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「お父ちゃん」 ①

 父は中学卒業とともに温泉旅館が多い場所で[魚のさばき方]などを修行し、祖父と祖母が営んでいた店を引き継ぎ拡大させ、スーパーと小さい宴会場と大きな宴会場を切り盛りしていた。

 人生半ば、父は43歳で他界した。癌と告知を受けた時は「もって1ヶ月」と医師に言われたらしいが、3ヶ月という時間を私たちにくれた。他界した後に、母をはじめ、色々な大人たちから数々の父の話を聞き[自分が知らない父]を知った。

 父はこんな人だった。

 曲がったことは許さない、子どもに対しても本気で向き合う。叱る時は巻き舌になることもあったし、ぶっ叩かれることもあった。頭が悪くなると困るからと、大抵は父に体をホールドされた状態でお尻をぶっ叩かれた。怖い父の存在によって、目に余るイタズラや人様に迷惑を掛けるようなことはしないように、幼心ながらも注意していた。

 こんな一面もあった。少年のように父がイタズラしてきたり、私たちの前で裸でフラダンスを踊って母に「ちょっと!」と怒られたり、すごく音痴だけど店のお座敷で「ギザギザハートの子守唄」をノリノリで歌ってみたり、女の人の名前の部分を母の名前に替えて歌ってみたり、旅行に出かければ自慢のビデオカメラで私たち家族、景色などを撮影し、そして見知らぬ女性も撮影しまた母に「また!もう!」と怒られては子どもみたいに笑っていた。とてもお茶目で、「少年」という感じだった。


 それから、父は大切なことを教えてくれた。例えば、私がこんな小さな時から

「いいか、思いやりが大事なんだぞ」

と教えてくれていた。小学低学年の時、全学年が体育館に集められた。理由は覚えていないが、発達障害児や知的障害児などのクラスを担当している先生が、何やら大切な話をしてくれた時のことだった。私はよく分からないけど「あ、これお父ちゃんが言ってたことだ」とふと思った。その時先生が、

「はい、大切なことはなんだか分かる人!」

みたいに生徒に質問した。私は挙手した。

身長が低い私は、整列時「1番前か2番目」を生涯続けており、その時の私は前から2番目。すると先生が私を指名っというか、私しか挙手していなかった。

「大切なのは、思いやりです!!」

そう答えた。先生に「その通り」と褒められ、私は嬉しかった。本当は思いやりの意味もよく分かっていなかったけれど、何となく、目に見えない何かが、心が大切なんだということは感じていた。

こんなこともあった。ある日、父親が私と姉を座らせてこう言った。「あるいじめっ子がいたんだけど、ダンスを踊る時に相手の子が手に包帯を巻いていた。このいじめっ子はどうしたと思う」と。首を傾げる私たちに、

「包帯を巻いている部分を避けて、怪我をしていない部分を握ってな、ダンスをしたんだ。これが思いやりなんだぞ。相手を思うことはとっても大切なんだ。」

と真剣な表情で話してくれて、最後は笑顔を見せてくれた。この時のことは、父が他界した後によく思い出した。

 それから、私が中学生になりバスケ部に入り、最後の大会で優勝を目指して臨んだ時のこと。準優勝に終わり悔しくて控え室でも、家に帰ってきてからも泣いていた私に父は、

「その涙は一生の宝物なんだぞ」

と笑いながら言った。私は

「人が泣いてんのに、なんで笑ってんの!」

と怒ったがそれでも父は笑いながら

「結果より大切なこともあるんだぞ。それはなぁ、経過なんだ。たくさん練習したこととか努力したこと。何より本気になって取り組んだこと。そして、悔しいと涙すること。これは宝物なんだぞ。」

と言い、続けて

「大人になると、こんなもんかと手を抜いたり、本気でやることが減って嬉し涙も悔し涙も流さなくなる。だから、この日のことは一生の宝物なんだぞ」

と話してくれた。この日の私は、悔しさでいっぱいで父の言葉は素直に聞けなかったけれど、退部式の時に、この言葉を後輩へのメッセージとして伝えた。すると、冷静であまり感情を出さない顧問の先生が、私たちよりもひどく泣き出した。身長が高くてスラッとした体型で、県でも有名な先生だったために「なぜ私たちのような弱いチームを担当してくれているのか」不思議だったし申し訳なかった。そんな、少し影のある普段クールな先生が声を出して泣いていた。とっても衝撃的だった。父の言葉は、私たちだけでなく先生の心にも強く強く響いたのだった。 


〜 すべてが私の一部 「お父ちゃん」②   へ続く 〜