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フロンティアを追いかけて 村上春樹『職業としての小説家』

(2015年10月に書いたものです)
Stephen KingのOn Writing、また現在読んでいるLiz GilbertのBig Magic: Creative Living Beyond Fearと、「もの書く人」が創造生活を綴ったメモワールは具体的な示唆に富みオトクなことが多い。
村上春樹「職業としての小説家」は、当然のようにKindle版がないので(泣)初めてアマゾンジャパンから取り寄せた本になった。
誰かが渡米してくるまで待つつもりだったが、大原ケイ氏の書評「村上春樹『職業としての小説家』への賛辞」を読みガマンできなくなったので。

(余談ながら、ほんの800円の海外送料で3日で届くのだから、めちゃくちゃ価値あり)
(余談2、紀伊国屋書店の買い占め騒動は、誰かいいことあったのだろうか。アマゾンであっさり2版が即日届いたよ)

大原氏の書評にもあるように、アメリカでの売り込みについて書いた章はアメリカ住みにとっては特に印象深いものだった。
久しぶりに聞いた言葉「フロンティア」。
日本、アメリカ、世界を超えて、彼の最後のフロンティアは自身だということだ。

さて、村上本には聖書を思い起こさせる要素が多々あるのだが、それは彼の言うところの、「全ての人間の深いところでつながっている物語」は当然そうなるというか、コーランを知ってる人も、仏典を知ってる人も、お天道様に手を合わせる人も、俗ヒーラーの追っかけも「あれ、師匠が言ってたことと同じことが書いてある」とそれぞれにどこかで思うのではないだろうか。

この本は自伝的エッセイであって小説ではないのが、まず創世記を連想させたのは下記の記述。

「登場人物に名前を与えることが長いあいだできませんでした。「鼠」とか「ジェイ」とか、そういう呼び名みたいなものはまあオーケーだったんですが、きちんとした姓名がどうしてもつけられませんでした。どうしてか? そう質問されても自分でもよくわかりません。「ただ人に名前をつけるのが、どうにも恥ずかしかったから」としか言えません。うまく言えないんだけど、僕みたいな者が勝手に人に(たとえそれが自分でこしらえた架空の人物であれ)名前を賦与するなんて、なんか嘘っぽい」という気がしたんです。
(中略)
『1Q84』も女主人公に「青豆」という名前がついた時点で、話は勢いを得て前に進み出しました。そういう意味では名前というのは、小説にとってとても重要な要素になります。

村上春樹「職業としての小説家」

少なくともアメリカ英語では、ものを作る人たちのことを日本ほど気軽に「クリエイター」と総称しないように思う。
大文字のCreatorは創造主、神を意味するので多少遠慮があるというか。
とはいえ、Creatorは、人間に天地創造の仕上げをさせたのですね。

神である主は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。
人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。

「新改訳 聖書」創世記2:19、20

また、JesusやJehovahなど、神の名を知り、呼ぶということにはまた充実した意味があるのだが、それはまたどこかで。

さて、表現することは、自分を掘り下げること、相対化すること、といったアイデアを語る創造者は多い。

(どのような読者を想定して書いているか、という問いに対し)
またそこには「自己治癒」的な意味合いもあったのではないかと思います。なぜならあらゆる創作行為には多かれ少なかれ、自らを補正しようという意図が含まれているからです。

村上春樹「職業としての小説家」

この装丁、今月公開の映画Steve Jobsの宣伝美術に通じるなー。
LA中にグレイスケールのビルボードがあってかっこいいよ。大胆な余白でジョブズに敬意を表している。





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