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「伝道」したくならない理由を考えた

プロテスタント教会で洗礼を受けて10年以上。
以前ほど奉仕活動にはコミットしなくなったが、

  • 毎週1度は教会へ行き礼拝にあずかる

  • 収入の十分の一を目安に献金する

  • 聖書を何度も読む

の3つだけは惰性でなく真剣に続けている。

が、自分の信仰を人に伝えて教会に誘うという狭義の「伝道」をやりたいと思ったことが一度もない。
実際やってない。

先日牧師が説教の中で「身近なあの人がいつ急死するともしれない。それまでに何も伝えていなかったら絶対に罪責感に苦しめられますよ」と言った。

特に誰の顔も思い浮かべず、「それはない。100%ない」と即思った。

せっかく長年教会で熱いご指導をたまわっているのに、伝道できるように訓練されなくては、伝道したいと思えるようにならなくては、とも思ってない...。

自分は日々信仰の恩恵を受けていながら、それを好きな人たちに教えたいいいいい!共有したいいい!とならないのはなぜなのか。

理由はいろいろありそうだが、死後の世界に関心がないこと、ハデスの存在をろくに信じていないことが主な原因ではないかと思う。本気で聖書が言うところの地獄があると確信していたら、そりゃあ伝道に必死になるだろう。家族が意識を持ったまま舌を焼かれて苦しむなんて耐えられないもの。

ただ、イエスの十字架について伝えたい!とは思わなくても、十一献金を続けることで経験したたくさんのミラクルについては嬉々として話しまくっているんだよな。

十一献金は、旧約の時代から存在した約束であって、こう言ってはなんだがイエスの犠牲を信じなくても、さらには聖書の言葉としてでなく実生活アドバイスとして受け取るだけでも成立する。
私の信仰のかたちはユダヤ教徒に近いのかもな。

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