誰かを盲信するということ
私が盲目的に信仰している存在と出会ったのは8年と少し前。正確に言えば、2015年の7月30日、渋谷のライブハウス。下手側の最前列に体を捩じ込んで、こりゃあなんだかわからないけどすごいものに出会っちゃった気がする、と思いながら、必死に動画を撮った。モッシュでもみくちゃにされながら撮った動画は、誰が何だかわからないくらいブレブレだったけど。いまでも私の携帯のアルバムの中にある。
そのバンドはあっという間に解散してしまって、残ったのは、しつこくしつこくその人のSNSを追いかける私だけだった。Twitterをフォローして、Instagramをフォローして、時たましか投稿しないnoteを読んだ。ツイートが少なくなれば親しそうな友達のリプライやフォロー欄を遡って新しいアカウントを見つけて、またフォロー。
気持ち悪い人間の自覚はあった。ただ、危害を加えるつもりも悪用するつもりもなくて、生きて生活して朗らかに過ごしてる姿を知りたかった。一方的に見つめる関係には優しさがある。一定のへだたりがある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれることを知った。SNSで呼吸するその人、静かに観察する私。
面識ができた後、私はその人に、その人の昔の投稿のスクショを見せたことがある。片思いフォローのInstagram。ほんとに昔からフォローしてくれてたんだね。笑う時に片側だけの頬を上げて笑う人にめっぽう弱い私に向かって、左側の頬だけをあげて笑った。スクショの右上は、黄緑色になった"フォロー中"のボタン。その人はとても顔が良い。
ハイライトにまとめられてるストーリーにはよく笑い声が入ってるのに、私はその人の笑い声を聞いたことがない。意外と高い声で、アハハハハと、綺麗な発音で笑うその声を、いつか聞いてみたい。
その日家に帰ってから、もうそんなことをしても遅いのに、フォロー中のボタンが見えないようスクショをトリミングした。気恥ずかしかった。
私のママがものすごいお金持ちの彼氏と付き合って、私がものすごく豪華な目黒のタワマンに住んでた時、夜中にその人とよくLINEをした。
財布を無くしてしまったこと、お姉さんが書いている絵が素敵なこと、オナニーの見せ合いをオナックスということ、その単語の響きに爆笑したこと。軽快な話題の時もあったけど、夜がふければふけるほど、ひっそりとこっそりと、その人の柔らかで傷つきやすい部分の吐露をしてくれたように思う。自分に自信がないこと、能力の低さに絶望すること、消えてしまいたいと思うこと。
私は、その人がそんな思いをするくらいなら、途中でやめたクリスチャンの学校に最後まで通ってちゃんと聖書を読めばよかったと思った。高円寺の終電間際のホームで飲みかけの安っちいワインのペットボトルをもらった時、私の通帳を印鑑ごと渡してホームに飛び込めばよかったと思った。小田急線に乗りながらその人の少し浮いたファンデと伸びて切られたネイルを眺めた時、全てをあげられたらよかったと思った。
8年の年月があっという間に経って、何も持っていなかったその人は、いつのまにか立派な立場を持っている。昔から人に囲まれてるのは変わらずなんだけど、今では昔と比にならないくらいの人に囲まれて求められてる。その人は生きているだけで私の視界に否が応でも入ってきて、みぞおちの臓器をぎゅうぎゅうと絞る。
作るものと、横顔と、話し方と、首の傾げ方と、つむぎだす文章と、控えめな呼吸音と。その人の全てを思って、ただ健やかに生きていけることを祈った。
その人は今日もきっと朝に眠る。
レンチンの白米とエナジードリンクで出来た体で、人が集まるあの部屋で、眠ることも忘れて朝まで何かを作っている。
いまでもその人は連絡をくれる、本当に時々だけど。
大体夜中の3時から朝方の5時の間だから、もう社会人になった私は、流石にすやすや眠っていて。朝起きて寝ぼけまなこで携帯を開くと、その人からの連絡は送信が取り消されている。
その時その人が、頬の産毛が逆立つほどの速度で暗い穴に落ちていたとしたら、吐いたはずの息に窒息しそうになっていたとしたら。私はやっぱり、聖書をちゃんと読んでおくべきだったと、すべてをあげられたらよかったと、あいも変わらず悔やむんだろう。
いつか熱海の別荘に行こう、と言った。クリスマスが過ぎた頃、何を考えたのか大阪に誘ってくれたのに、抜けられない仕事があって断らざるを得なかった私は、時間がたったいつの日かそう提案した。
再婚したパパの新しい奥さんの手で、熱海の別荘は売られてしまう。まだ買い手がついてないけどいずれ私は行けなくなる。その人と熱海に行くことは、今までもこれからも、きっとない。
私は、盲信するということは負けることだと知ってしまった只の女な訳であって、夜中の3時に酔って連絡をして銀座からタクシーに飛び乗る、そこらへんにいる女なわけであって。
ただ、今を現実だと認識するには、着いた建物があまりに綺麗で美しすぎるみたいだった。