VRC環境課「瞳に林檎を映して」
「昨日はお疲れ様でした、メメリちゃん」
「……お疲れ様です」
誰もいないバーの隅、目の前には綺麗に磨かれたグラスの中で揺蕩う、レモンイエローの水面。
テーブルはまるで鏡面のように私達を映し、あらゆる物が整えられた店内は私にとって場違い以外の何物でもなかった。
そんな居心地の悪さを少しだけ感じながら、私はその感覚を誤魔化すように置かれた林檎酒へと手を伸ばす。
頭に僅かな靄がかかったような感覚はいつぶりだろう。
だが、これ以上はとても身を任せる気になれなかった。
未だ伺い知れぬ環境で感覚をぼかす事ほど、愚かで危険なことはないからだ。
「いかがですか?」
「……美味しいですね」と呟いた私を見ながら、クロムさんは少しだけ眉を傾けて、穏やかな表情を見せる。
「こちらは、まだ慣れない事ばかりかもしれないですね」
一口。見た目の印象を裏切らず、少しずつ飲みながら話す姿からは、業務中の鋭さは一切感じられない。あるいはそれを感じさせないだけの強かさを身に付けているのか。
「業務は少しずつ教えていきますから。本当は、少ないほうが良いんですけどね」
かたり、とグラスの中の氷が音を立てる。
左右非対称の瞳が、私の無表情を映し出していた。
「改めて、よろしくお願いしますね」
「……こちらこそ、よろしくお願いします」
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「今日もお疲れ様でした、メメリちゃん」
「お疲れ様でした、クロムさん」
仮初ではあるが、災害対策係としての業務を終えて久しぶりに訪れた労いの場。
程よく抑えられた光源と眼下に広がる控えめな夜景が、少なくとも今この夜だけは平穏であることを告げている気がした。
目の前では、磨かれたグラスに収められた、淡いレモンイエローの林檎酒が揺れている。
そういえば、初めてここを訪れた時にも同じものを飲んだ気がする。
ふと懐かしさを感じて、思わず目を細めてしまう。
「何だか嬉しそうですね」と、クロムさんはあの時と変わらない表情で私に語り掛ける。
「初めてこちらに来た時のことを、少しだけ思い出していたもので」
いつかの時よりも、少しだけ楽しめるようになったお酒を飲みながら呟く。
今日ぐらいは少しだけこの酩酊に身を任せても許されるだろう。
「クロムさん」
「はい、何ですか?」
「これからも、よろしくお願いします」
笑顔が作れているかは分からない。
もし作れていたとしても、それは酷くぎこちない、不格好なものかもしれない。
それでも、クロムさんは私の気持ちを代弁するように、少しだけ朱に染まった頬でふわりと笑みを浮かべていた。
林檎酒の甘い香りが鼻孔を満たす。
舌で触れたそれは、あそこではきっと味うことのできなかったものだ。
この余韻を、今日はもう少しだけ。
静かな空間を、グラスを傾ける音が優しく満たしてくれていた。
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