EP.7「見えざるモノ、幻視するモノ」Cp.5
役目を終え、がらんどうの廃墟と化したビルの屋上。周囲から頭一つ抜け見渡すのに丁度いいポイントを、イオとAURORAは狙撃地点に選んでいた。
少女の小柄な身体には不釣り合いなほど長大な狙撃銃が、迸る銃火が、屋上の闇を一定のテンポで照らし出す。
スコープの先に映るのは、歪な角を頭上に戴く獣の姿。
完全に日の落ちた真夜中、しかし煌々と周囲を照らし出す月明かりのお陰か、引き金を引く指先には一切の淀みもない。
コンマ数秒前に足が置かれていた場所の地面が抉れ、掠める銃弾で角は火花を散らす。
対象との距離をものともしない精密な狙撃は、直撃することはなくとも、着実にその目的を果たしていた。
「しかし、ここまで的確に回避できるとは。課長さんの言っていたように本当にこちらの銃弾が見えているようだね」
まるで銃そのものが声を発しているように、引き金を引き続ける少女と語らう。
AURORA――イオをサポートする自立型AIは、文字通り銃と一心同体となっている。
イオの狙撃に合わせ、銃としても観測手としてもこれ以上にないサポートを行い続ける彼からしても、その回避精度は驚くべきものなのだろう。
次々と流れてくる僅かな環境変化と微調整を一瞬の内に処理しながら、滑らかに指先が動く。
AURORAが導き出す緻密に計算された正確無比な弾道は、走る獣自身も気付かない内に行く道を強制する。
「よし……ポイントへの誘導に成功。後は例の――密葬係に引き継ぐとしようか」
その声に無言で頷きを返し、銃を下げると置いてあった紙パックのジュースへと手を伸ばす。
業務の後の一口は、また格別においしい。そんな表情を浮かべているのかいないのか、無表情で獣が走り去っていった闇夜を見つめる。
木々が生い茂った森の奥。誰の眼も届かないその場所で、新たな戦闘が始まろうとしていた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
獣は駆ける、自身へと放たれる銃弾を躱しながら。
もはや思考も理性も存在しない肉体にあるのは、目の前の獲物を引き裂くことと、見えざる角を宙へと伸ばし続けることだけ。
いつからこうだったのか、こうなる自分はどのようなモノだったのか。
それに答えを出すことは二度と叶わない。
不可逆な実験はヒトを文字通りの獣に変え、自己の本能と与えられた命令にのみ従うように作り変えてしまった。
獣の感覚は、彼方から既に立ち並ぶ二人の姿を明確に捉えていた。
一人はまずそうだが、もう一人はとても旨そうだ。
逃がした獲物と再び対峙した獣は、喜びにその口をゆがめる。
「お待ちしておりました」
一方が何事かを呟くが、獣の耳にはただの音としか認識されない。
今度は逃がさない、これ以上は待ちきれない。
本能のまま獣は飛び掛かる。目の前の二人が、奇しくも同じ意思を携えこの場にいることを、獣が気付くことはなかった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
勢いよく飛び掛かってくる獣を前に、二人は対峙する。
獣の持つ鋭敏な重覚の前では、姿を隠すことにほとんど意味はない。
だからこそ、獣を絡めとるための思考と罠を張り巡らせる。
「始めましょうか、メメリちゃん」
「承知しました」
コートから小さな小瓶を取り出し、それを向かってくる獣と自身の間へと投げ付ける。
昨夜のモノとは違う薄琥珀色の液体が揺れ、そして地面へと落ちて中身を晒す。
その瞬間、小瓶の破片を中心として濛々と煙が立ち込める。
一瞬、獣の脚がその速度を落とすものの、気にせず向かってくるのをメメリは眺めていた。
「やはり警戒しませんか……それが命取りですが」
瞬間、獣の身体からがくんと力が抜ける。
それが毒性の煙を吸ったことによる影響だと気付いた時には、二人の姿は目の前から消えていた。
煙を裂きながら飛来する釘を、痺れた身体を引きずりながら辛うじて躱す。
毒性はそこまで高くないのか、あるいは獣の巨大な体躯には効果が低いのか、先程までの俊敏さは失われたものの尚も攻撃は当たらない。
口元を覆うガスマスク越しに、No.966がメメリへと指示を出す。
「次です。メメリちゃん、魔素充填剤の用意を」
メメリが左手に持っていたジュラルミンケースを開く。
中から出てきたのは、いくつかの円筒状の物体――ヘレンから預かった魔素充填剤がいくつか。
地面を転がる円筒は朧げな光を放ちながら、周囲へと振動フェルミオンを撒き散らしていく。
獣の動きがにわかに鈍りだす。
重覚の無いものにとっては大して変わらない空間も、過剰な重覚を持つ獣からすれば突然の濃霧に覆われたに等しい。
煙の中へと飛び込んでいき、互いの得物を振り上げる。
獣にとっては不自由を強いる毒だが、二人にとっては限りなく無害に近い。
動きの精彩を欠くことなく、爪を閃かせ、釘を放ち、鋸を薙ぐ。
しかし、それでも未だに獣には届かない。
本来であれば、文字通り一撃必殺を得意とする彼女たちにとって、攻撃の手段も回数も多い必要はない。
それ故に、獣へと一撃を加えるための手数があと一歩足りない。
そして、時間が経てば経つほどに張り巡らせた罠は薄れ効力を失っていく。
メメリが更に引き金を引いた瞬間、空気の抜ける音だけがして、Mosquitoは相手に刺すべき針を失ったことを告げる。
弾切れ――新たな釘を装填しなければ、と思う間もなく獣がメメリへと飛び掛かる。
「このタイミングでとは……」
一手の遅れが反撃の隙を与えてしまう。
回避行動をとろうとするも、獣の予想以上の速さに足が追い付かない。
両腕で身体を覆うように防御の姿勢を取るが、獣の振り上げた凶腕はメメリの身体をMosquitoと鋸諸共宙へと舞わす。
頭に響く鈍い音。
強かに背中を打ち付け、開いた口から肺の空気が強引に押し出される。
後輩の危機を察知したNo.966が全身をばねのように引き絞り、その瞬発力を以てメメリへと駆け寄ろうとする。
しかし、開いた距離はこの状況において絶望的な程に遠い。
獣の鼻腔が獲物の流す血液を嗅ぎ取り、口元からは喉を震わせる愉悦が漏れる。
そうしている間にも、流れ出す血液に黒いコートの袖は見る間に赤黒く染まっていく。
笑むようにぬらりと光る牙を覗かせた獣は、止めとばかりにメメリの頭部へと振り上げた爪を翳した。
だが同時に、切り裂かれたはずのメメリの左腕が獣に向かって持ち上がる。
握りしめたのは、リアムから渡されたデリンジャー。
「……お返しです。私の視界を差し上げましょう」
指を伸ばせば、互いに触れられる距離――避けようのない一撃。飛び出す銃弾は寸分たがわず獣へと突き刺さった。
威力は低く、それは決して致命傷には成り得ない。
しかし、その銃弾が生み出すのはこの場において何よりも致命的な結果。
――早い話が、視界を共有できるってこと――
リアムとの会話が頭を過ぎる。
7つの眼球が映し出す名状しがたいその視界は、通信機と銃弾を介して容赦なく視神経へと突き刺さる。
それがもたらした結果は、激痛に呻くような獣の悲鳴が物語っていた。両腕で頭を握りつぶすかの如く抑えながら、その動きが完全に囚われる。
獣がその身を高く捩じらせると同時に、黒猫の爪が獣の胴体へと致死の毒を刻み付ける。
メメリが瞳を向けた時には、獣の巨躯が重たい音と共に墜落し、やがて一切の音がその場から消えた。
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