Who are you?
コロナ禍に呑み込まれてからというもの頻繁にnoteを更新するようになった。
本来はライブという活動を中心に自己表現を行っていたが、そうもいかなくなり、その間に何かできないかと思いたち、こういったブログまがいな更新を続けるに至ったのである。
そうこうしている内に、継続は大事だけれども、それ以上に
-満足感を越える速度で発表し続ける-
という事こそ大事なのではないかと考えるようになっていった。
私は自分の文体があまり好きではない。
特段文章が上手いとも思わないうえに、誤用も多いし、句読点を置く位置も美しくない。
それでも、書けば書くほど少しずつ変化していく。
劇的な変化は無い。
けれど、伝えたいことが、より面白おかしく形を変えたり、言葉尻から感じる色調や雰囲気が変わったり...
繰り返していく内に、何か悪くない気がしてくる。
そして、その度に今までと違った部分が気になったりする。
書くうえでの補正や、イメージを具現化する際の手順等、少しずつ手を加えていく。
そうすると楽しくなってくる。
今までの自分は「納得しないと出したくない病」にかかっていた気がする。
それはクオリティー以上に、自己満足と、批判や指摘されることへの恐怖があった様にも思う。
けれど改めて、やりたい事があるなら気にせず一旦やってみる、発表してみる事が重要だと痛感させられた。
出さなければ存在しない。
存在しないものには気付きも無ければ、アドバイスをもらう事すらできない。
そうすると、脳の中で"想定の作品"だけが成熟していき、実際には存在しない経験値(使用された事の無いホコリをかぶった知識)ばかりが増え、結果的に実績を伴わないプライドだけが肥大していく。
そうなると更に大変だ。
そもそもプライドが傷つく事を恐れ、満遍なく一定数評価されるように...と凝り固まった思考回路は、さらに慎重になり、誰も知る事の無い未完の大作(ガラクタ)を積み上げる。
その傍らを、「ええー!?確かに悪くないけれどちょっと荒過ぎない?」と、一見自分よりレベルの低い作品がビュンビュン通過していく。
そして1年経った頃。
もう全く追いつけない程に差を開けられているのだ。
彼や彼女たちは出し続けた。
自分のレベルですら荒いと思ったのだ。それはもう比べ物にならない程、辛辣な批評に曝され、壁にもぶち当たったはずだ。
しかし、彼や彼女たちは表現する手を止めなかった。
もはや、何かと比べたり、外野が入り込む隙も無かったのではないだろうか。
常に自己と向き合い、悔しさや恥と引き換えに、気付きそして築いた。
その速さは全く同じ練習量であっても埋まらないだろう。
いくら仮想の訓練(言動)を重ねても実戦の経験(行動)には遠く及ばないのである。
というか、そもそも恥などという概念など存在しない。
結局そういった先入観がトドメをさせずにいるのだ。
やりたい事を無心に、とにかく突き進める。
いつだって遅くはない、時には照れながらも、沢山書いて、沢山気付いて少しずつでも前に進んでいこうと思う。
って、何大層な事言うとんねん。
頑張ってるから今日はラーメン食べるねん~ぐへへ...
って素直に言わんかい。
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