こんな時代に生き延びるだけでも
ここ数日、「いじめ」についての議論が紛糾している。個人として「いじめ」の是非を問われれば、おそらくノータイムで「到底許しがたい卑劣な行為」と心から答えるだろう。しかし、過去の被害経験に基づいた当事者の「怒りの声」に関しては、発生の抑制や制度の是正といった対策よりも加害者に対する断罪や追及という目的へ向かいやすいため、オピニオンとして扱うことにはある程度慎重を期するべきではないかというのが、公人としての自分の主張である。
とはいえ、今回のケースのようにその内容の凄惨さがクローズアップされる場合、そういった吟味のフェイズは丸ごとスキップされ、沸騰した「感情」が一瞬にして議場を支配してしまう。勿論、抑えようのない当事者としての怒りに対して、冷静な立場から論理的になれと諭すような真似は部外者の驕りだということは重々承知している。しかし、例え起こった出来事がどんなに悲惨なものであったとしても、それが「出来事」である限りは、個人の内側に留まる「解釈」の域を出ることは決してない。全てのものに平等に適用される制度のようなものについて語る上では、人間とその営みを「機序」として認識するような、ある種の冷徹な視点が不可欠だ。
生命や人権は何にも代えられないという主張に異論を挟む気はないし、露悪的に振る舞うことを是とするつもりもない。しかし、事が起こってからその重要性を再確認しているだけでは、根本的解決に至ることは無いということもまた確かだろう。自分も元々はいじめられる側の身であったが、スクールカースト的な価値観をどうにか内面化し、同化することで危機的状況を脱した過去がある。それはつまり、世間で言われるところの「陽キャ」と「陰キャ」そのどちらの立場も経験しているということであり、それぞれの採用する価値観についても自分なりに理解せんと努めてきたつもりだ。今回の記事では、そんな自身の立ち位置から「個別的事例」ではなく「現象」としての「いじめ」について考えていきたい。
いわゆる「いじめ」と呼ばれる行為は、我々人間の価値体系の中でこそ「個人の尊厳を踏み躙る悪虐非道な行為」として位置づけられているが、これを「淘汰のためのシステム」と考えれば、生物にとっての摂理となる。実際、この星の全ての生命はそのように適者生存を繰り返すことで悠久の時を生き永らえてきたわけであるが、我々人間の場合は、幸か不幸か高度に発達した「自我」が一人一人に備わっていた。このイレギュラーな「自我」の存在は、遺伝子を運搬する乗り物としての役割から我々をある程度自由にした一方で、総体を最適な状態に維持するために不可欠な淘汰というシステムとは絶望的に嚙み合わせが悪かった。選択肢が与えられるのであれば、自ら淘汰されることを望む者などいるはずもない。当然の帰結である。
ゆえに旧社会では長い間、この自我の問題を克服しシステムとしての淘汰を保存する方便として「階級制」や「宗教」そして「共同体の掟」といったものが利用されてきた。「差別」もまた、その副産物のうちの一つである。しかし、その強大な支配力を以てしても、既に一度目覚めてしまっている自我を永久に縛り続けておくことは適わず、ヒューマニズムの勃興により「個人」へとフォーカスが当てられた結果、これらのシステムは「個」を著しく阻害するものとして漸進的に駆逐されていくこととなった。そう、少なくとも表面上は。つまり「いじめ」とは、この「総体を維持するシステムとしての淘汰」の名残であり、人間の生物としての側面に深く突き刺さった楔なのである。
そんな「いじめ」の問題について考える時、実際に行われる環境としての「学校」の存在を無視して語ることはできない。そもそも、我々はなぜ学校に通うのか。単に知識を身につけることだけが目的であるなら、場所に拘る必要は無い筈だ。以前不登校ユーチューバーが物議を醸した時、学校に通う意義というものが改めて世間に問い直されたが、この時「通う必要がある」と主張した人々の多くは「学校に行かないと集団生活の上で必要な社会性を身に付けることができなくなる」という認識を共有しているように見えた。確かに論理としては筋が通っているし、自分も同じ立場であればそこを軸に論陣を張ったであろう。
しかし困ったことに、この「集団に帰属するために必要な社会性を身に付ける」という学校の存在意義それ自体が、前述した「システムとしての淘汰」と抜群のシナジーを生んでしまっている。そう、この目的が暗に示しているのは「必要なだけの社会性を獲得できなければ、集団に帰属することはできない」という厳然たる事実であり、それは先天的な適合性の欠如という可能性を悉く無視したものである。精神的に成熟しているとされる大人でさえ、適合性の低い人間に対しては恐ろしく冷淡に振る舞うことがあるのだから、未成熟とされている子供がどのような行動に出るかについては、推して知るべしというものだ。
このように、前提として「そもそも集団に帰属することに適していない存在」が考慮されていないことが、学校という施設の抱える構造的欠陥と言えるだろう。そして、もう一つの致命的な欠陥は、クラス分けによって人の移動が極めて固定的になってしまうことである。システムというものは初めからそこに存在しているわけではない。長い時間をかけて営みの中に少しずつ定着していくものだ。そう考えると、一年間の殆どの時間を学校側から一方的に決められた集団の中で過ごすことを強いられるこの「学級」という制度は、システムが根を張るには最高の土壌であると言っても過言ではない。
ならば逆に、そのシステムが完全に定着してしまう前に集団の構成員を刷新してしまうことこそが、状況を打開する最良の方策と言えるのではないか。大学では小中高と比較して「いじめ」が起こりにくいと一般的には認識されているが、そこには「クラス」という概念が希薄で、関わる人間が授業によって分けられる大学の流動的な特性が大きく関係していると個人的には推測している。実際、大学において「いじめ」やそれに類する不祥事の多くは、サークルのような固定的・閉鎖的なコミュニティで起こることが多い。
問題になるのは構造上の欠陥ばかりではない。もし学校側で「いじめ」の抑制に積極的に取り組もうとすれば、どうしても教育の介入的、管理的な側面を強化せざるを得ず、子供の自主性を重んじる自由主義的な風潮と少なからず対立することになるだろう。しかし、倫理や道徳を説き、当事者の内なる善性に期待する旧来の手法は、個人に対して有効に働く可能性はあっても、最適化の結果としてのシステムの前には、殆ど無力と言っていい。これは以前にも書いたことだが、「いじめ」を生み出す土台となる構造やシステムが保存されたまま、その表出だけが問題視される世の中で焦点となるのは決して「いじめ」をしないことなどではなく、いかに「いじめ」であることを悟られずに「いじめ」と同質の権利を行使するかであって、それは結果として手口の巧妙化を招くだけである。
「いじめ」を取り巻く問題はどれも、一筋縄でいくような生易しいものではない。それはこの問題が決して目の前の加害者との戦いではなく、古くは人間がまだ「生物」であった頃より、我々を陰から支配し続けてきた構造やシステムとの戦いに他ならないからだ。そしてツイートでも書いたように、構造やシステムに立ち向かうということは、その内部にいることで得ていた恩恵をも擲つことと同義である。適合性に欠ける人間を制度で包摂すれば、そうでない人々にとってそれは「依怙贔屓」以外の何物でもないし、卒業アルバムを懐かしさと共に眺めることのできる人々にとって、学校生活の楽しかった思い出や青春は常に「クラス」と共に思い出されるものだろう。
そして、彼らがそれを簡単には捨てられないこともまた痛いほどに理解している。自分もいじめられる側から「そちら」に移ることができた時、世界の全てが輝いて見えたのだから。結局どれだけ偉そうに言葉を並べ立ててみたところで、一度構造に同化することを選択し、それが「できてしまった」自分に、差し伸べられる腕など無い。しかし、せめて自分がこの構造の内側にいるという事実からは、死ぬまで絶対に目を逸らさないことに決めたのだ。それがこの「いじめ問題」に対する自分なりの戦い方であり、けじめのつけ方だと思っている。
最後になりますが、今、人生の苦境に立たされている人たちへ。
最近ではすっかり生きていることの価値が希釈されてしまって、死んでしまうことがとても大袈裟なことのようになってしまっているけれど、こんな時代にこんな世界であなたが今日まで生き延びてきたことは、あなた自身が思っている以上にとても偉大なことであって、それは誰にでもできるようなことではないと思っています。何はともあれとにかく今日まで、生きてくれて、生き延びてくれてありがとう。