見出し画像

「あなたにとってポルノグラフィティとは?」

「僕らが生まれてくるずっとずっと前にはもうアポロ11号は月に行ったっていうのに 僕らはこの街がまだジャングルだった頃から変わらない愛の形探してる」

 1999年9月8日、とあるバンドが「アポロ」という楽曲で鮮烈なメジャーデビューを果たした。バンドの名はポルノグラフィティ。ゼロ年代を生きていた人間で、彼らの曲を全く聴いたことがないという者はほぼ皆無だろう。それほど爆発的に、彼らは売れていたのだ。新曲を出せば何かしらのタイアップが付き、街中やお茶の間では常にどこかで彼らの楽曲が流れていた。実際のところ自分も、本来の「猥褻図画」を表す「ポルノ」という言葉より先に、固有名詞としての「ポルノ」の方が定着したクチであったし、ある時代までは明らかに負の語彙でしかなかったこの三文字に見事市民権を獲得せしめたという点において、彼らの功績の大きさが窺い知れる。

 そして自分を含む90年代に生を受けた世代は、彼らの音楽と共に青春を過ごした世代といっても過言ではない。カラオケに行けば誰かしらが「アゲハ蝶」を歌っていたし、運動会のリレーでは「ミュージック・アワー」が掛かっていたし、GTO、そして鋼の錬金術師のOPでは「ヒトリノ夜」や「メリッサ」が流れていた。しかし、その知名度に反して、いや知名度が高すぎたからこそ、敢えてアルバムやカップリングまで聴き込んでいる筋金入りのファンは周囲にあまりいなかったように思うし、自分も小学校高学年くらいまでは「なんとなく知ってる」程度の存在だった。

 そんな自分がなぜ、彼らの音楽にどっぷりハマったのか。今となっては定かではないが、入口はやはりTSUTAYAで借りた「RED/BLUE」だったと思う。最初は有名な曲だけを聴くつもりで借りたつもりが、よくよく聴いてみると一般に知られていない楽曲にも名曲が多く、そこには今まで当たり前のようにあった筈の「捨て曲」というものが存在していなかった。特に「パレット」の"だって知っている言葉はほんのちょっとで 感じれることはそれよりも多くて むりやり窮屈な服着せてるみたい"という歌詞はあまりにも衝撃的で、己のモヤモヤに形が与えられるという体験を、自分は晴一氏の言葉によって初めて得たのである。

 彼の着眼点の秀逸さは、デビューシングルである「アポロ」の頃から既に傑出していた。冒頭で引用したサビの歌詞は要するに「技術的には近年目覚ましい進歩を遂げている我々だけど、精神的には太古の昔から何も進歩していないよね」ということを言いたいのだ。明らかにデビュー曲で見せていいレベルの達観ではないのだが、口語体と疾走感によって説教臭さが脱臭され、これ以上ないほどキャッチーな楽曲に仕上がっている。この深遠なテーマを大衆的な言葉とメロディに翻訳するという技術に関して、おそらくポルノグラフィティの右に出るものはいないだろう。

 それだけではない。「カルマの坂」でも見せているように、晴一氏はストーリーテリングの手腕も群を抜いていた。敢えて世代の感覚で表現するならば、BUMP OF CHICKINのファンが初めて「K」を聴いた時と同じ感覚と言えば伝わるだろうか。とにかく言葉選びが圧倒的に美しいのである。"月を飼うのと真夜中に 水槽を持ち出して窓辺に置いた いとも簡単に捕獲された 小ぶりな月が水面に浮かぶ"こんな途轍もない歌詞をこともなげに書き上げ、あろうことかカップリングに配置してしまう彼の迸る才気に自分は憧れ、どこどこまでも夢中になった。今でも晴一氏の歌詞は、自分が詩情を意識的に表現する上でのベンチマーク的存在である。

 また、昭仁氏のあまりに特徴的な歌唱もポルノグラフィティの楽曲を普遍的たらしめている要素のひとつだ。曲調だけを挙げればポップス、ラテン系、カントリー、HR/HMにフォルクローレと、ジャンルとして一括りにできない音楽性の幅広さが彼らの特徴だが、それでも統一感を損なわないのはやはり昭仁氏の声色に宿る圧倒的な個性に拠るところが大きい。どんな曲調でも彼が歌えばたちまちそれが「ポルノグラフィティ」の楽曲になってしまうのだから。それだけの説得力が彼の歌唱にはある。勿論、昭仁氏の手掛ける飾り気のない直情的な歌詞も魅力ではあるが、晴一が紡いだ言葉を、昭仁の声がなぞる。それが自分の中での「ポルノグラフィティ」の最高形なのだ。

 そんな自分が晴れて小遣いから最初に買ったシングルは「シスター」だった。そう、好きになった時にはもう、シラタマ氏は脱退してしまっていたのである。結成当初からのオリジナルメンバーの脱退、二人体制での再始動というバンドとしての明確なターニングポイントでドロップされたこの曲は、やせ我慢じみた前向きさは一切無く、かといって過去に縋るような後ろ向きさも無い、ただ今目の前にある悲しみに向き合い、受け容れようとする試みだった。"悲しみが友のように語りかけてくる 永遠に寄り添って僕らは生きていく"このタイミングでこの歌詞を出してくる誠実さに胸を打たれ、彼らについていく決意を新たにしたことを覚えている。

 それから少ない小遣いやレンタルを駆使し既存のアルバムやシングルを全て揃え、カラオケでの練習の果てに昭仁氏の声帯模写も会得、すっかりファンが板についてきた自分であったが、さすがにFCへの加入やライブへの参戦までは叶わず、友人から借りた「PURPLE'S」のライブDVDを擦り切れるほど観ては、いつか絶対に生で彼らの音楽を聴くんだという決意を育んでいた。そしてそれは彼らの故郷についても同じで、因島という離島の出身であることは認知していたし、歌詞の中に因島の地名が出てくるたびに「ここはどんな場所なんだろう」と気になってはいたものの、家族旅行以外で県外に出た経験が全く無かった自分にはあまりに縁遠い場所過ぎて、自分がいつかそこに行くというイメージさえ抱くことができなかったのである。それでも漠然と彼らの音楽をずっと好きでいる確信が当時の自分の中にはあったのだが、結局はそんな日々も長くは続かなかった。思春期特有の「売れている音楽を嗜好するのはダサい」という自意識過剰の前に、あれほど燃え上がっていた自身のポルノグラフィティへの情熱はあっけなく小規模な敗北を喫してしまったのである。

 決して嫌いになったとか、全く興味が無くなったというわけではなかった。時々思い出したように聴くようなことはあったし、新譜が出た時にはチェックもしていた。ただ、発売日当日にCDを買うことがなくなった。聴きたい曲だけを聴くようになった。そして何より「ポルノグラフィティが好き」ということを公言することがなくなった。それはきっと自分がライブハウスに通うようになり、玄人趣味の人々と深く関わるようになったことも無関係ではなかっただろう。己の居場所をサブカルに見出そうとしていた当時の自分にとって、ポルノグラフィティが好きということは「恥ずかしいこと」以外の何物でもなかったのだ。それでも時々ポルノが好きだという人に出会うと、その人とは他の部分でも馬が合うということが多く、離れている間にも彼らの存在は自分の中である種の指標であり続けていた。

 そして最後に通しで聴いたアルバム「∠TRIGGER」から10年、自分は思いがけない形でポルノグラフィティと再会することになる。尾道の古本屋「弐拾dB」との縁で訪れるようになった尾道で、思いがけず目にした「因島」の文字。そんな偶然があるのかと目を疑った。ポルノグラフィティが好きで因島を訪れるファンは数あれど、意図せず因島に辿り着いたファンは自分だけなのではないだろうか。ここにきてようやく、彼らは自分の音楽的嗜好ではなくもっと深い、根本的なところで繋がっているアーティストなのだということを理解した。そうであるならば、ポルノが好きと言う人と馬が合う自分の傾向にも説明がつく。これからはまた胸を張って「ポルノグラフィティが好き」と言える、そんな気がしていた。

 それから時は流れ、今年の4月。「因島・横浜ロマンスポルノ'24~解放区~」および「島ごとぽるの展」の開催がアナウンスされた。既にGW、盆暮れ正月を尾道や向島で過ごし、しまなみでの暮らしが定着し始めていた自分にとって、ポルノグラフィティが因島で凱旋ライブを行うことの意味は、これ以上無いほどに大きくなっていた。FCにも入れずライブにも行けず苦虫を嚙み潰していたあの頃の自分に、このライブを見せてやりたい。気が付けばFCに入会し、チケットの抽選に応募していた。当たるかもわからない抽選に応募するなんて自分らしくもない選択だが、今回はこれでいい。絶対に当たる、根拠はなくともそんな確信があった。

 その確信は見事的中し、両日ともに当選。あとは公演日を待つのみであったが、当日には余裕で通過しているだろうと思われた台風10号の予想外の停滞により、開催はおろか尾道到達まで危ぶまれる始末。それでも普段であれば、煩雑な手続きを踏んでまでチケットを買い直すようなことは絶対にしなかっただろう。しかし、二十年前の無念をも背負った今の自分は一味違う。東海道新幹線の運休を見越して本来の前入り予定日であった30日から一日ずらした29日の11時半にチケットを予約、見事15時半に広島市内に入ることに成功した。聞くところによると静岡に線状降水帯が発生したとかで広島行きの便は13時のものが最終だったらしく、30日も当然終日運休であったため、前乗りするにはここが唯一のタイミングだったと言える。さらに在来線の運休の問題についても、広島市内で会食した友人の厚意により車で送ってもらえることとなり、あれだけ到達不能と思われた尾道になんと30日の朝には辿り着いていたというのだから、きっと愛が呼ぶ方へと導かれていたに違いない。

 結局、台風はうまい具合に逸れてくれたのだが、セットの設営がどうしても間に合わず、残念ながら31日の公演は中止になってしまった。荒天であればまだ悲しみの行き場もあったのだが、晴天と言うのがまたやりきれない。自分は運よく二日間当選していたためまだ心の余裕はあったものの、初日のみ当選で涙を呑むことになった人々の悲しみの声もSNSでは数多く見受けられ、二日目の公演に行けることに対しての罪悪感も芽生え始めそうになる中、"今朝の空を見ると今日もできたじゃん、と思ってしまいそうになるけど、安全確認や設営を考えたらどう考えても無理だったと思い直す。その分も明日頑張ります"という、ファンの心の内を救い取って寄り添おうとする晴一氏のポストに救われた気持ちになった。どれだけ売れて大きくなっても、いちばん弱い人たちの方を向いていてくれる。そんな彼らを自分は好きになったのだと、そう再確認した瞬間だった。

 無事二日目の公演は決行となり、迎えたライブ当日。東尾道の駐車場に車を停め、バスで因島運動公園に設営された会場へと向かうのだが、全体として、とにかくスタッフの対応が暖かかった。バスの発着場からグッズの交換、そして会場への誘導に至るまで、どこに配置されたスタッフも必ず「楽しんできてくださいね」「行ってらっしゃい」と一言声を掛けてくれるのだ。殆どオリエンタルランドのホスピタリティである。いままでそれなりの数ライブを観てきたが、こんなにたくさんの人の善意に包まれながら会場へと向かったのは初めての経験で、少し面食らってしまった。これは因島公演だからなのか、はたまたポルノグラフィティのライブだからなのか。きっとその両方なのだろう。

 開演時間を迎え、初めて生で観た彼らのライブはまさに「圧巻」の一言。何よりもまずその歌唱力。信じられないことに、音源とほぼ差異が無いのである。一度でもライブに行った経験を持つ者にとって、生歌ならではの不安定さやブレみたいなものは多かれ少なかれ付き纏うものであったし、それこそがライブの醍醐味だとも自分は思っていたのだが、昭仁氏の歌声は本当に、あの頃聴いていた音源のままなのだ。CDが擦り切れるまで聴いていたあの声が、今自分の目の前で同じ声のまま響いている。ただその事実が途方もない奇跡のように思えて、溢れそうになる涙を堪えていた。そして年齢を全く感じさせない攻撃的なパフォーマンスと、備後弁交じりのMCの気安さのギャップも、間違いなく彼らの魅力のひとつだろう。それでいて聴かせる時にはしっとりと聴かせてしまうのだから頭が下がる。終盤のMCで晴一氏が「故郷に帰るたびに未熟な自分と再会するような気分になっていたけど、今回のライブでそれが更新された。故郷の景色を更新できる機会なんて滅多にないことだから、今回それを実現させてくれた皆さんには本当に感謝しています」という内容のことを話していたが、ここにいる大半の人間がポルノグラフィティ無しには因島の存在すら知らなかったであろう事実を考えると、やっぱり彼らだからこそ成し得たことなんだろうなと思う。

 また、ここで初披露となった新曲「ヴィヴァーチェ」。これがとても良かった。特にラスサビの「君が思うより優しい世界がきっとあるから 信じて歌え」という歌詞。ここにポルノグラフィティの「優しさ」が凝縮されている気がした。どんなに崇高な理念も、高尚な思想も、結局多くに届けられるだけの訴求力を持たなければそれは自己満足と同義であり、それが自分が「サブカル」と袂を分かつきっかけになったのだが、そんな自分にとって、最大多数に届けられるだけの実績とキャッチーさを併せ持ったポルノグラフィティというバンドが25周年という節目を迎えてなお、まっすぐな音と言葉で「信じて戦え」というメッセージをシーンの最前線で発しているということが、他でもない希望に映っていた。自分の表現が目指すべき場所を昭仁氏が示してくれたような、そんな気がした。

 そして何より全てが「愛」に溢れていた。因島への愛、ファンへの愛、スタッフへの愛、そしてポルノグラフィティへの愛。こうして言葉にすると陳腐な響きになってしまうが、まさか自分がポルノグラフィティほどメジャーなアーティストのライブで、演者の側に感情移入しライブを開催できたこと自体を喜ぶといった体験をすることになるとは露ほども思っていなかった。先述したスタッフの対応の暖かさはもちろん、本来なら予防的観点から両日ともに中止になってもおかしくなかった所をギリギリまで協議し数日掛けて設営するセットを一日で突貫工事してくれたり、来れなかった人に少しでもこの空気を届けられるよう僅かな時間で配信準備を整えてくれたり、最後はステージに残った二人がじっくり時間を掛けて舞台袖の端から端まで手を振りながら回ってくれたりと、とにかくこの空間を作るためにあの場にいた全ての人が全力を尽くしていたのが伝わってきた。「本当に月に行こうって考えたんだろね なんだか愛の理想みたいだね」アポロのこの歌詞がそのまま体現されたような時間だったと思う。初めて観る彼らのライブが因島でよかった。あの頃観れなかったことも全部この日のためだったと、彼らとこの島がそう思わせてくれたのだ。

「あなたにとってポルノグラフィティとは?」

 この質問に対する明瞭な回答を、自分は持ち合わせていなかった。だからこそこの記事を書き始めたのだが、ここまで書いて漸く合点がいった。自分の中にポルノグラフィティがあるのではない。ポルノグラフィティが歩んできた二十五年の中に自分がいるのだ。そんな風に感じさせてくれるふたりが奏でているからこそ、彼らの音楽はこれからも普遍的であり続けていくのだと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?