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どうにもならないピカレスク

「"普通"に生まれ、"普通"に育てられた人」の発する「普通にやりなよ」という何の参考にもならないアドバイス、それ以上の言語化を求めても「仕組み」がないから何も返ってこない、そういう無邪気さを、奇跡的に生まれながら今まで共有してこれたような人たち、あくまで酸いも甘いも「正しい」の範疇の中の振れ幅でできてきたような人たち、そういう純粋さが集まって正しく選民的に排他的に成り立っているような社会性に直面するたび、自分は本当は「悪者」の役割として生きさせられているのではないかと、自我ごとおおきななにかに引きちぎられてしまいそうな気持ちになってしまう。

 先日、そんな内容のポストが自分のタイムラインを流れていった。確かに自分も同じようなことを常々感じながら日々を過ごしているし、コロナ禍の頃であれば間違いなく共感していただろう。しかし今の自分には寧ろ「そこ」に留まっていることこそが、彼らの「生き辛さ」を加速させているということがはっきりとわかる。我々が社会の中で幸福に生きていくためには、この自己憐憫の自縄自縛状態から抜け出し、"普通"の人々といかに共存していくかを考えていくことが肝要なのだ。

 まず第一に「"普通"に生まれ、"普通"に育てられた人」という括り。ここでは自分を下に置いているためわかりにくいが、これは明確な差別意識である。差別とは、他者を不当に貶める出力だけを指すのではない。相手との相互理解は不可能であると一方的にシャットアウトすることもまた差別なのだ。勿論、現実に対話が不可能なケースはままあり、正当防衛の手段としてシャットアウトを使わざるを得ない局面に遭遇することはあるかもしれないが、ただ予防的な観点から「"普通"に生まれ、"普通"に育てられた人」全てを仮想敵に設定してしまうのは、些か早計ではないだろうか。

 そして一見すると自虐的に見えるこの文章の大意は、おそらく以下のようなものである。

「繊細な自分がこんなにも苦しんでいるのに、何も考えていないような奴らが"正しい存在"として幅をきかせている。こんな世の中はおかしい」

かつて自分がそうであったからこそわかることだが、この文章を敢えて発表する際にモチベーションとなるのは上記の意図以外有り得ないのであり、その根底にあるのは「他者への深い想像力を有する自分たちこそが"正しい存在"として認められるべき」という強い自負だ。しかしそれは我々が長い間苦しめられてきた"普通"に生きている人が無自覚に発露する「選民意識」と、果たして何が違うというのか。寧ろ明確に意思を伴う分、こちらの方が強度が高いとさえ言えるだろう。結局のところ「正しさ」のパイを奪い合っている限り、この方舟の堂々巡りは永久に終わらないのである。

 ならば答えは至極シンプルだ。そんな「正しさ」の奪い合いの土俵からは、きっぱりと降りてしまえばいい。我々の生きづらさはその生来の性質に由来するものではなく、「正しさ」の無自覚な暴力性を糾弾しておきながら一方で地位としての「正しさ」に固執する、その歪みの中にこそあるのだ。そもそも正しくなれないから生き辛いと思い込んでいる時点で、「正しさ」が支配する世界の内側に囚われていると言える。しかし、どうせ正しくなど生きられないのなら、いっそ正しさなど投げ捨てて「正しくなさ」をとことん突き詰めてしまうのも一つの手ではないか。

 ここで重要なのは、「悪」ではなく「正しくなさ」であるということだ。己を社会の秩序を壊乱する「悪」ではなく「正しさ」という価値基準から解き放たれた存在と解釈することで、我々の弱みは忽ち強みとなる。なぜなら「正しさ」の世界で生きてきた"普通"の人がその「正しさ」ゆえに苦しみを背負うような状況に直面した時、そこに手を差し伸べられるのは「正しくない存在」だけなのだから。そう、正しくないからこそ我々は「こうすべき」という正論に拠らない、その人個人に最も適したソリューションを導き出すことができるのである。

 とはいえ無償で助けてやる筋合いはない。助ける代わりに正しくなれない我々をその「正しさ」でフォローしてくださいね。これで契約成立である。このようにわざわざ念押しせずとも、本当にピンチの時に助けてくれた者に対しては多少なりとも負い目を感じるのが人情であり、この段階まで持ち込むことができればこちらの要求が通る可能性は劇的に増大する。我々は友人にはなれずとも、良きビジネスパートナーにはなれるのだ。そのためにはまず自ら有用性を示していく必要があり、ゆえに彼らにとって我々の有用性が最大化する瞬間を逃さないよう、徹底的に「正しくなさ」を極めていくことが生き残りの鍵となる。"普通"に生きてきた人に同じ"普通"の土俵で戦いを挑んだところで、惨敗の記憶ばかりが積み重なり、孤独と劣等感が鋭く研ぎ澄まされていくだけだ。そのような状況に陥り、本来助け合えるはずの者同士が啀み合うことは、自分にとっても相手にとっても明確な損失だろう。

 重ね重ね言うが、"普通"の人々は我々の敵ではない。彼らは我々に無いものを持っていて、我々もまた、彼らに無いものを持っている。だから互いに無いものは補い合っていけばいいし、うまくいかなそうなら補完を可能にするようなコミュニケーションの方法を模索していけばいい。ただそれだけの話なのだ。もしこの世界に敵と呼べるものがあるとするならば、それは己の中の「正しくありたい」という願望だけなのではないかと自分は思う。


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