愛という字は真心で恋という字にゃ下心

 そんなことを桑田佳祐は「SEA SIDE WOMAN BLUES」で唄っていたけれど、いよいよ自分には「恋」というものがわからなくなってきた。誰かのことを「好き」と思う感情は自分にもあるし、一緒にいて楽しい人とか、顔がタイプな人とか、体つきが好みな人というのもしっかりいる。そしてそれらをある程度言語化することもできる。しかし、これらを向ける対象に抱くものが「恋愛感情」なのかというと、自分にはどうしても疑問符がつく。なぜなら今までの経験の中でこれらの要素が自分の抱える孤独を根本的に癒すことは無く、それどころかむしろ深めていく一方だったからだ。

 例えば単に一緒にいて楽しいというようなフィーリングが合う人の場合、それが「恋愛関係」である必要性は全く無い。共に過ごす時間が増えれば増えるほど嫌な面が見えたり迷惑を掛けてしまう可能性も高まる以上、わざわざリスクを増大させる「恋愛」に発展させる必要はないのだから。かと言って単に「顔がタイプ」だったり「体つきが好み」といった本能に基づいた嗜好を「恋愛感情」とするならそれは、相手を自分のものにしたいといった所有欲的な性格を帯びてしまう。それゆえこの前者と後者のハイブリッドが、世間的には「恋愛」として認知されているらしいことがわかってきた。

 では自分にとって「友愛」と「恋愛」を区別する要素はどこか。それは対象へのコミット具合が変わることで、向けることのできる「愛」の最大値が増大するよ、という点にこそあり、自分にとっての「恋愛感情」とは、この最大値の「愛」を渡したいと思う相手に向けられるものなのだ。そのため、「自身の長所が相手にとって最大限プラスに働き、短所は最小限マイナスに働いている状態」という、自分にとっての「愛」の定義に反した行動を取ってしまうことは、自分の中では「恋愛感情」として認められないのである。

 しかし、こうして自身の恋愛観を詳細に分析してみるまで、自分は一般的な恋愛観の枠内に己を当て嵌めようとしており、それゆえにただ一緒にいて楽しいと感じた人に告白してしまって失敗したり、本能的な嗜好に従い相手を探した結果、精神面での相性が悪く破局するといったことを繰り返し、そしてその度に相手を傷つけてしまった罪悪感に苛まれていた。だが、冷静にひとつひとつ自身の心を紐解いていくと、どうやらこれらの失敗は、自身の中にある承認欲求に基づいた所有欲をロマンティックラブイデオロギーで正当化しようとしていたからであることに気が付いた。

 そして、そもそも己の承認欲求を他者を使って埋めようとしていたことに問題の本質があったことにも思い至った。結局のところ、相手を自分だけのものだと確信して安心してみようが、どれだけ物理的な接触を重ねようが、相手が自分と違うものを見ていることに由来する己の孤独感が埋まるはずもない。だからこそまずは「違うもの」を見てしまう自分を自分自身が赦し、孤独に対する理解を深めていくことでその輪郭を鮮明にしていく過程こそが自分にとって本当に必要なことだったのだ。

 「人の気持ちを考えよう」という利他的な道徳律が支配する世の中で、なぜか恋愛という領域においてだけは「自分だけを見てほしい、特別に扱ってほしい」というエゴが正当な要求として承認される。そしてここで言うところの「特別」とは、「自分は他者とは違う地位にある」という相対的な特別感のことだろう。しかし自分にとっての「特別」はそうではなく、その人のためだけに設えた言葉や関係という、絶対的な特別なのだ。それゆえその「特別」は、恋愛関係にない対象にも当て嵌まってしまうことになるが、そのどれもが他にはない、唯一無二のものなのである。

 だから自分には過去の終わってしまった恋愛に対して「やり直したい」といった類の未練が全くない。終わってしまった関係はそうなるだけの理由があったから終わってしまったということでしかなく、その選択がお互いの関係にとって最善であり続ける限り、自分が相手に向ける「愛」はこれからも続いていくからだ。例えどんなに傷つけ傷つけられた末の破局だったとしても、その人に対して「愛」を向けようという試みが自分の中に生じたことは、自分にとってはずっと特別なのだから。

 ところが、世の創作物や色恋沙汰を見ていると、どうやら我を失うほどに恋い焦がれるというようなことがこの世界には往々にしてあるようだ。自分もその概念自体は理解しているし、それを創作に落とし込もうとしたこともあった。しかし自分には、愛を向ける主体である筈の「我」を失うことを終ぞ「恋愛」と見做すことはできなかった。それによって相手を苦しめてしまう可能性がちらついてしまい、相手よりも自分の方が大切なのではないかという疑念を、どうしても振り払うことができないからだ。

 おそらく自分は「恋愛」という概念そのものを否定している。自分にとってずっと「恋」と「愛」は地続きではなかった。自分が一番恐れていたのは関係を解消することでも、物理的に接触ができなくなることでもなく、対象に対する「愛」を完遂できないような状況に自分が陥ってしまうことだった。そうなった瞬間に、自分は己の愛の根拠である自分自身を否定しなくてはいけなくなってしまうから。そしてその状況を作り出してしまうのはいつも、世間でいうところの「恋」なのだ。ゆえに、自分に恋をしてしまう人と自分は共に生きていくことができない。それはとても悲しく認め難いことだが、どうやらそれが自分の現実らしい。だから、もうこれからは恋愛を目的とした関係を結ぶことをやめようと思う。たぶんこれ以上ここで探していても、自分が必要としているものは見つけられないから。どんな関係性だろうと、同じ孤独を抱え、同じ世界を見ている、これからの人生でそんな人にひとりでも出会えたなら、それだけでいい。そう思うのは、分不相応な望みだろうか。




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