誰にもわからないことは、誰にもわからない
タイトル通りの記事です。いつ終息するのですか。などと聞かれることがありますが、それは今誰にもわからない状況なんです。という回答をして私はお給料をいただいている今日この頃です。わからないものはわからない。じゃあ実験なり研究しなさいよ!私はそういった立場も力も能力もございません。できることはその研究ができる人々の求めることがあれば応じ(LINEを使って自治体により定期的に行われている健康状態アンケートなど)、健康管理をして感染防護策をこうじて過ごすことのみです。
普段私はビジネスや自己成長ではなく、エンタメとしてtwitterを利用していたため、コロナウイルスの文字すら見たくなくなり、関連する文言はミュートにしていました。それでも話題になっているものは流れてくるもので、昨日5/11の国会中継について知り動画をみました。以下立憲民主党がツイートされた国会中継動画をもとに文字お越ししました。その次に、問題のやり取りがあります。
立憲民主党福山議員「5/4の時点で、日本の無症状あるいは軽症の感染者は結果として陽性者の10倍。つまり今日本全体で症状出ている人も、無症状軽症者含めて10万人程度いるという認識ですか。」
専門家会議尾身氏「報告されたすべての感染者を捕捉しているわけではないということはおっしゃる通りで、10倍か15倍か20倍かというのは、今の段階では誰にもわかりません。」
立憲民主党福山議員「判明はしていないけど、感染者は10万人前後いることはある種の蓋然性があるということで、尾身先生よろしいでしょうか。」※蓋然性:確実かどうかの度合いのこと
専門家会議尾身氏「今報告されているよりも数が多いことは間違いないと思います。10倍か12倍か20倍かというのはいまのところ誰もわからないと思います。」
立憲民主党福山議員「専門家会議に出席されている尾身先生が、10倍20倍30倍いるかわからないとおっしゃった。西浦先生は10倍いらっしゃるかもしれないと。今の話ですと10万人日本中にいてその人たちが感染をひろげていると。総理はじゃあどのくらいいらっしゃるとおもっているのですか。」
安倍総理「感染者がどのくらいいるかと思っているかとのことですが、先ほど尾身先生もそれは誰にも確たる数は答えられないと。西浦先生はそれは統計学的にそういうひとつの考え方を示された。」
立憲民主党福山議員「院内感染が広まっているのはみんな、無症状軽症者の方から広がっています。無症状軽症者の方を捕捉しないでどうやって次の対策が見えるんですか。そのことについていくら言っても納得する答えが返ってこない。これだけ感染経路不明な状況の中で、無症状軽症の方が院内感染を広めているような状況があちこちあって調査してほしいけれども自宅待機だといわれて様態が変化し亡くなっているかたが沢山出ている。そういう状況の中で今の1万5000人だけではないと尾身先生も西浦先生も言われている。そのことについて謙虚にしないと全体像が見えないんじゃないかと言っているんです。すくなくともPCRの拡充と隔離の徹底をしないといけません。もし10万人いるとすれば軽症無症状の方も含めてPCR拡充しなければいけない。」
そして以下が現在多くリツイートされている場面。まだ国会の全体像を映した動画を見つけられておらず、前述のやり取りの後の質疑でこのやりとりがあったのでしょうか。わかる方教えてください。
立憲民主党福山議員「感染者が10倍いる可能性は否定出来ないんですよね」
専門家会議尾身氏「東京の陽性率は7%という数字が出た」
立憲民主党福山議員「話を短くしろ」
専門家会議尾身氏「この数字は医療機関に行く人の数字で、一般コミュニティの感染リスクはこれより低いと考えるのが常識です」
立憲民主党福山氏「答えてない」
尾身氏が説明をはじめている最中もヤジを飛ばし、話をさえぎっておりました。一連のやり取りをみて感じたことは、国会の場に専門家を呼ぶ必要はあったのでしょうか。大臣らは専門家会議と話し事前レクも受けているはずです。その場に官僚なり省庁職員が同席し、専門家会議の情報をもとに国会資料を作成するのが本来の在り方であると私は思います。専門家会議はあくまでも専門家集団でデータなどで検証議論をする、それをもとに国が政策を考える。厚労省にはつい昨年まで現場で医師をしていたような人も入省する、医系技官という存在がおり、戦力がいないわけではないはずです。
前半で福山議員が安倍総理に対し、感染者がどのくらいいるかわかるか質問をされていましたが、こんなやり取りに時間を割く必要はあるのでしょうか。専門家会議委員は名前も顔も公表し奮闘されています。委員にはメリットなんて微塵もない中、批判を浴びせられながらもご尽力されていることを理解しましょう。この方々は人類がウイルスと共存できる社会になっていくために、基調で必要な、守るべき存在であることを今一度かみしめてもらいたく、あらあらな文章ではありますが書きました。