【短編】逃避行
少女は少年に憧れて、幼いころから伸ばし続けた髪の毛を無造作にハサミで切り落とした。放課後の教室。床にばらつく細い猫っ毛が、窓からそよぐ風に流れていく。
こんな辛い思いをこれからも続けていくのなら、いっそこうやって卒業してしまえばいいんだ。
不意に目からあふれ出す生理液に驚きながらも、少女はじょきじょきと切り続けた。
二度と思い出したくないような経験。誰にも干渉されない世界に飛び込めたら、この劈くようなノイズから解放されると信じて。現実にさようならできるのなら、夢の世界に、想像通りの世界に飲み込まれる快楽を想像して、こうやって、実現できる逃避行に。
誰も見ていない。見てくれない。だったら自分がそうなるしかないんだ。危ない思想かもしれない。でも、もうそれしか残されていなかった。
ハサミを机に置く。遠くの教室から聞こえる吹奏楽のリズムに、校庭のざわめき。誰もいないこの空間は私だけのもの。いっそ、こんな制服も脱いでしまえば軽くなるのだろうか。冷たい鎖に繋がれたようだ。サーカスの猛獣と一緒。自由なんてない。掴み取るには、その一歩を出す必要がある。重たい足取りの、その一歩。
テレビのキャスターが踏ん反り返って、最近の若者について語っている。何が思春期だ。何がホルモンバランスの崩れだ。何が非行だ。何がジェネレーションだ。偉そうに。糞くらえだ。私は私で、他の誰でもなく、同じコーホートで括るなって話。
少女は少年を黒板の陰に思い浮かべて、少し微笑んだ。埃とカビに似たようなにおいに、制汗剤と汗が入り混じったにおい。髪の毛を一つまみし、ライターの火を近づけると、チリチリと音を立てて、丸まり燃えていった。何か本で読んだことかある。髪を燃やしたにおいは、人を燃やしたにおいだと。つまり、私はここで火葬され、死んだのだ。もう、死んでしまったのだ。安堵のように、胸をなでおろす。訪れたのは、安寧と空虚感だったけれど。明日になれば、再び苦虫のような日々が始まって、兵隊のように整列させられるのだ。四角を丸にしていくのが正義だと。スカートを履いて、つけたくもない下着をつけて。ため息と人の燃えたにおいが充満しているこの時間だけが本物なのかもしれない。
少女は明日に絶望し、窓ガラスに思いっきり椅子を投げつけた。甲高いガラスの割れる音と、鈍い音が耳に心地いい。もうすべてぐちゃぐちゃになってしまえばいい。そう思った。思い込んだ。明日なんて来なくたって、今日すらなくなってしまえば平和なのだと。
有象無象の集団の一人から、個人としての一人になれた気がする。急に笑いが込み上げてきた。嘔吐するように声を荒げる。廊下に歩く教師に羽交い絞めにされたけども、今の私は無敵だ。少し道からはみ出たくらいで、そんなにいけない事なのだろうか。あぁ、いっそのこと、みんな消えてしまえ。みんなみんな。あいつも、こいつも。全部。ママも、私の身体をむさぼり舐めまわすお父さんと呼ばなくちゃいけない男も。
何があっても笑っていなくては。何があっても。
たとえ、泣きたいことがあっても。私は女だから。私の身体がそうである限り。あいつのものを口に含む嗚咽感も、私の隅々まで舐めまわすその舌も。指も。
私がいまのままである以上、逃げられない。
嗚呼。
少女は少年に憧れ、後悔し、絶望し、安堵し、絶対見ることのできない夢を垣間見ることが出来た。
残酷にも、明日は来る。