個展を開きたい①
ギャラリー展示に関してのDMがきた。
怪しいと思い検索をすると、案外まともそうなところからだった。
展示会から声がかかるのはすごく嬉しい。
絵を描き始めてどのくらい経ったのだろうか。
とにかく図工や美術の時間はあまり好きな方ではなかったな。自分の作ったものを並べられるのは嫌だった。
確か四年生のときだったかな。夏休みの自由研究でのアイデア貯金箱を作った。作ったと言ってもお母さんが主体なんだけども。割り箸をボンドでくっつけて面を作り、箱状にしてペンギンを表現した。それが見事にクラスの代表に選ばれた。そして市役所の展示に飾られたっけな。
あまり嬉しいという感覚ではなかった。だって創ったのは僕じゃないから。「すごいじゃん」なんて言われても、虚しいだけ。いや、虚しさもなかったよなあの時は。ただ思い出には強く残っている。
それ以降、以前もだけどあまり作るといったことに積極的ではなかった。
作るものは誰かのマネだったり、心は踊らないただ作るだけのもの。提出までに一様仕上げるみたいな、それだけだった。
表現が好きになった瞬間は覚えてないけども、その時期なら分かる。
中学2年生。まさにその時だ。
池田という友達がいた。池ちゃんは、絵がうまかった。それから仁君。彼も絵がうまかった。上手かったと言っても、他の人から見ればただの落書きに近いものがあるだろう。でも僕にとっては魅力的だった。
池ちゃんは机に落書きばかりする常習犯だったから、担任の先生が机に白い紙貼って好きなだけ描けって。池ちゃんの描く絵はヤンキー漫画のカメレオンみたいな、リーゼントの人たちやバイクだった。彼の描く絵の中で最も記憶に色濃く残っているのは、アンパンマンのキャラクターたち。特に食パンマンが汚い尻を出して壁をカサカサ登っている様子は秀逸だった。今でも思い出す。
卒業文集の仁くんのページにはそれが書いてある。記憶に残る絵なんて、みんなそうそうないでしょ。だからあれだけは何故か自慢できる。僕の友達の描く絵は最高なんだぞって。
それから中学3年生。県立高校に前期試験で受かったから、暇だった。
その時に早めに受験を終えた連中を捕まえて、あれは授業ごっこだったんだろうな。自分の知っていることを教えていた。その中でも力を入れていたのがマイナー試験。
マイナー試験はマイナーな問題を作ってただ解いてもらうだけの手作り冊子だった。でも好んで解いてくれるから次々に作ったけ。4回くらい。
高校生も分からないような、調べないと解けないような問題ばかり。人生にはなんの役にも立たないけし、知っていても得しないような問題たち。
問題を作って解いてもらうのは快感だった。それが後に教育学部への受験に繋がるのだけど。人生はなにかの連続性だと今になって感じる。
それはともかく作るのが好きになった。高校に入ってからは物語を作ったり、文章を書くのにハマった。ヤフーで、ブログを初めて投稿を開始。はじめはレスポンスなど皆無だったけど、暫くしてからコメントが付き始めた。これが創作の意欲に繋がっていった。中には批判的なコメントがつくこともあったけど、そんなことはどうでもいい。
好きな作品を山ほど作ってブログにのせていった。
まだ、絵を描くことは始めていない。
ピクシブを始めたのは2012年だった。そこから絵を描き始めたが、あまり続かない。絵を描くためのソフトもないし、だからペイントで描いている。
今描いているようなスタイルが確立されたのはそれから暫くしてから。
絵にもコメントやブックマークが付き始めてからだった。
つまるところ、好きになるのは誰かしらに評価されてからということになる。本当に趣味で描くだけの自慰行為同然。それでも少数、微量の見てくれる人がいるから描いているんだろうな。
さて、来年、所沢で個展を開いてみたい。夢の一つを形にする。素人以下の人間のちっぽけな夢。
大人になってから夢を持つことは豊かになるよね。
詳細はまだ未定だ。雲をつかむような話。
それでも自己表現の楽しみとしてやってみたい。いいよ、誰も来なくても。それはそれ。今の自分の出せる魅力がそんなものだってこと。
さて、長ったらしい文章はこの辺で終わらせます。また、作ることについて今度、新しく詳しく分割して書いてみます。
とにかくこれを書いていて、自分がどうして描く事に意欲が湧くのか少しわかったような気がする。
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