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リゲティ
リゲティを最近聴いてる。
ジェルジュ•リゲティ。
リゲティは、ちょーざっくり言うと2006年まで生きてた作曲家。
私の感覚的にはクラシック界のビョーク。
ちゃんと知りたい人はググってくれ。
(私もベンキョします。)
一言で言うと、痛覚が刺激される。
ご飯が美味しく食べれたり、珈琲の匂いが薫ったり、1日の疲れを癒してくれる作風とは言い難い。
痛い。
ぶつけた、ぶつかられた。
柔らかい何かをビョーンと引きちぎる。
輪ゴムパッチン。
針で刺す。
フラッシュバック。
苦虫を噛み潰す。
そして、何もない深い海に、独り沈み、たゆたう。浮かぶためにもがくことは、最初から発想になかった。重力には逆らえない。
無調だし、グシャっとしていて、誰もが好きになる作曲家とは言えない。
でも「音楽が美しい、音楽によって感情が揺さぶられる」など。後付けの価値観や、何かのきっかけがあって発生する気持ちより、さらに奥。
人間が普遍的に感じるうごめく生命や本能、欲求。空気や時間の変化を感じられる。
しかし、声高に主張するでもない。
いつも、もう一人の自分、あるいは第三者が状況を見ているよう。
クラシック経験者ならば「クッソ難。演奏者の心とパワーも技術もレベルエグないと、弾けんやん!」という曲ばかりなのだが、聞こえ方としては、まるで即興で、その場のフィーリングで出来上がったかのよう。
似た事例を考えてみると「ピカソ、天才的に上手いけど、最終的には子供が書いたような作風の絵になった。」っていうケースかな。
(リゲティの場合は別にピカソほどの振り幅の広い、作風の変化はないけど。)
他に例えを出すと。
私が大学時代、クラシックピアノを専攻していた時の師匠から「まるで、その場で作品が、今生まれたように弾いて欲しい。」と言われた。
クラシックを演奏する場合は実は0→1ではない。大抵、誰かが作曲した作品を弾く。
私は演奏者はイタコか俳優と思っている。
作曲者(故人or脚本家)が、その作品(心残りな出来事or台本)に込めた思いを汲み取り、演奏社が持っている感性で再現し、聴く人に伝える。
しかし「良くまとめる」ために、クラシックの定型に当てはめただけ。上手いのに演奏姿や音楽を見てられない•聴いてられない…といったような「私」が前面に出過ぎる演奏をする人も、結構多い。キムタクは何を演じても、かっこいいキムタクでいれば成り立つし、求められるのだから別にそれでもいいのだ。全然。
ただ面白くはない。
先の師匠の言葉を、もっと意訳すると「楽譜を見ろ、ちゃんと。そして見て掬い出した作曲者の意図を、今の自分の感情とリンクさせて、まるで作曲者がその場で演奏したレベルで追体験しろ。聴く人にも伝えろ。」ということだったと思う。
6年越しくらいに、いま分かったw
もう遅いかな。
無理にでも遅くないと思うことにする。
リゲティは、全力で演じる演者、同時にカメラマンとして被写体を収める、1人2役を一気にオペレートする感覚なのかな。
いずれにしても誤魔化しや、ナルシズムは一切通用しなさそうだな。
絶対、リゲティ弾けたら、上手くなるのは間違いない。ムジカ•リチェルカータや、エチュードを聞けば聞くほど「リゲティ、マジピアノ相当弾けたんだな」って思うもん。
まあ、それは作曲家みんなか…。
「楽譜を買って、製本して満足!」せずに
リゲティ思い切り演奏したい。