女殺油地獄
初めて文楽を観た。
観たのは近松門左衛門作「女殺油地獄」
ストーリーはググって欲しい。
簡単にまとめると、油屋のクズ息子が素行の悪さから家を追い出され、遊女に貢いだ借金が返せなくなり、普段から世話を焼いてくれる姉のような存在の人妻を殺して、金を盗んで逃げる。という後味悪い物語である。
息子もクズだが、わたしは両親もなかなかだなと思う。両親は自分たちが甘やかしたから息子がつけ上がったと自覚している。とうとう堪忍袋の尾が切れ、息子を勘当した。だが、息子への心配から、同業者である油屋の人妻に身なりを整える程度の金を預け、「息子に自分たちの名は出さずに、渡してくれ」と荷が重い役を任せるのである。
直接渡さないのは、勘当した手前、面目を保つ意味合いと、今まで自分たち親の厳しさが足りずに息子を増長させてしまったという戒めからだろう。
しかし!
息子は全てのやり取りをこっそり聞いてしまっており、親の心は理解しつつも、両親が預けた額がとても借金を返せる額ではないと分かると、人妻に金を貸してくれるよう懇願を始める。
人妻は両親の心情も聞いているし、頑として
「夫が仕事から帰ってきて許可を取らないと貸せない」といって跳ね除ける。
クズ息子は結局、逆ギレして人妻を殺し、金を盗みそのまま逃げる。
この両親も、息子に諭したり、勘当したり、手を尽くしてもクズのままで、ほとほと疲れ果てて
他人である人妻の力を借りたのだろう。
しかし、金を無心されても頑として跳ね除けなければならないのは、他人である人妻ではなく、親が担う役割なのでは?
すごく残酷な言い方をすれば、息子のためなのに、汚れ役を担えないのだ。
悪人、鬼になれないのだ。
自分まで地獄には堕ちたくないのだ。
実は、父親はクズ息子にとって継父で、先代の主人の名を継いで油屋を続けていくために、もともとその店の番頭だったが、息子の母親と結婚したのである。
実の父親でないという立場から、クズ息子を育てながらも終始遠慮気味。舐められまくっているので蹴られたり殴られたり…。
それでも完全には縁を捨てきれない。
しかし、こんなことを途中言っていた。
「だんだんクズ息子が大きくなるにつれて、本当の父親である先代の主人に似てくる。勘当したけれど、まるで自分が世話になった主人にそのような仕打ちをしているようで申し訳ない。」
これは裏を返せば、クズ息子そのものと真剣に向き合ってるのではなく、先代の主人が遺した子供という義理から接しているようにも聞こえないだろうか…。
母親も母親である。
泣き叫んだり、どうしても遠慮して甘やかしてしまう旦那に喝を入れたり、クズ息子をぶったり…。奮闘はしているが、途中、継父を踏みつけるクズ息子に対して放った解せないセリフがあった。
「五体満足に産んだのに、親を踏みつけるなんて!盲人でもやらないことなのに、人の心がないのか!」
わたしは何となく、モヤモヤした。
「いやいや、人しての道徳心を失いかけてるから、年老いた継父を踏みつけられるんだよ。
五体満足に産んだのに!じゃなくて、息子の現実見ろよ。」
どーしょーもないクズ息子だが
「継父はちゃんと育ててくれるけど先代の主人の息子だからという義理からではないか…。」
「母親は愛情ではなくて、自分の思い通りにならないから泣き喚いているだけだろ。」
という拗ねてひんまがったのは少しわかってしまうのだ。
近松もマジの極悪人ではなく、
斬られそうになったら命乞いをしたり、
油屋の跡取りという立場がなくならないよう、妹に婿を取らせないように演技しろと吹聴したり、
身体と悪知恵は大人なのに、中身は子供な卑しい
クズに見えるように書いてるのではと思う。
そして「何してんねん。」といいつつ
いい人でなんだかんだ世話を焼いてしまう人妻が1番の被害者だろう。
私が人妻やったら、クズ息子も勿論だが、親の情という子供がいる母親というポイントに訴えかけてきたクズ息子両親も恨む…。
しかも、その日に限って仕事にもう一踏ん張り精を出して家を空けてた旦那…。
とにかく我が子以外、みんな嫌。
この女殺油地獄は、近松が書いたものの人気が出ず、そのあとほとんど上演されることはなかったが、太平洋戦争後に少しずつ復元して、今に至る作品とのこと。
だって観た後「クズだなー」と笑い飛ばせる人は
まだしも、スッキリする人はほぼいないと思われる。江戸時代の人もそうだろう。
また、表向きは断ちることのできない情から起こった悲劇というストーリーだが、「情」の奥にある覚悟のなさと甘さを痛烈に批判しているかもしれない近松の風刺を感じ、我が身にも思い当たる節がある…。まあ、ここまで明確な理由はなくとも何とも言えない胸糞悪くなる感情を待つ人が少なくなかったから、一度は上演されなくなったのだろう。
近松が上記の深層心理まで推測して脚本作ったとしたら、恐ろしい。
と同時に一種類の味だけではない、さまざまな食感や香り、味の変化を楽しめる凄腕パティシエのケーキのような、いろんな角度から感じられる作品だからこそ、今でもさまざまな近松の作品が上演されるのだろう。
しかも、題材にする目の付け所がとても普遍的。
断ち切れない情、他人じゃないからこそ起こる悲劇って、ストーカー殺人、介護殺人、子が親を殺す、あるいはその逆に当てはまらん?
悲しいけど「自分が思う通りに相手が動いてくれん」ことから殺すとかバリバリ現代にも通じる。
近松すご…。
文楽自体の感想も書いておこう。
文楽を初めて観たが、一言で言うと効率的だと思った。
能や歌舞伎、西洋でもオペラやバレエ、演劇は
ずっと一人一役で、その日の一公演分は演じるのが当たり前だと思う。
人形を操る人はおそらく上記に倣っているが、文楽は人形のセリフや解説文を語る人、伴奏する三味線は段によって違う人が演奏していたのである。
勘当される場面は、声が大きく表情豊かな語りの人。最後、徐々に不吉な雰囲気になり殺される場面は、声量は出ないけど、趣があり、かといって重苦しくしすぎない絶妙な空気を醸し出しせる人。
でも人が変わったとしても、作品全体通しての統一感には、なんら影響がないのである。
・その人が得意とする雰囲気に合いそうな場面を割り当てる。
・演奏と人形遣いの重要な役どころの人以外、
みーんな顔が全くわからない黒子。
・一瞬で交代させることができる、周り扉の演奏者スペース。
・何かの本で読んだが、ゲネも一回らしい
全てできてこそ一人前、アイドル的な誰かの人気に頼るというアーティスティック要素というより
・一つの作品の一つのピースになる。
・得意な人に得意なこと任しとこ。
・そんな1人だけで、何時間も演奏無理や。語るトーン揃えとけば人変わっても大丈夫やって〜
・ゲネ何回もしたら、費用が発生してまうやん!
上方で発展したのが分かるというか、割り切りの良さと、そろばん弾いてそうな商人の匂いがするぞ。
いっぱい人を入れて、一座を回していかなあかん、ビジネスであり。
利益を見込めるくらい、庶民に親しまれたエンタメやったんやなと思う。
半蔵門の国立劇場には、語りの字幕がつくので
何喋ってるか分かるし、(しかもアクセントは関西…笑)人形の動きの巧みさ、語りや三味線も段によって人が変わるし、歌舞伎や能で途中一回は寝落ちしてまうようになった私でも飽きなかった。
オススメです。
好きか嫌いかは置いといて、スマホであらかじめストーリー調べて、古典で赤点取ってないレベルやった「理解」はできると思う…。おそらく。
また観にいきたい。文楽。