食べることのお話し
友達がFacebookで屠殺の話しを投稿していた。
私も自分なりの食べ物とか命への感覚を改めて書きしたためてみた。
”食べる”すなわち他の生物を殺すこと
”生物を殺す”という野蛮な行為
ここは誰しも一度は考えるところなんじゃないかと思う。
”食べること” すなわち命を頂くこと。
自分の血となり肉となる生き物に十分感謝をして頂く。
なので、お皿に乗ったものを残さず食べましょう。
『いただきます』
この”いただきます”の中には作ってくれた人への感謝、自分の身となる食べ物となった生命に対しての感謝などをひとつに集約させている。
多くの日本人なら大概こういう流れになる。
これは日本人の宗教観から来ていることですが、この宗教観の薄れた日本でも所々にこのような簡単な行為が所作やお作法として本の折り目のように消えることなく残っている。
もちろん私にも初詣やお葬式などと同じように宗教とは別に色々とその名残が意識せずに刷り込まれています。
なので、食べ物を残すことは無条件に悪いことと思っていたのです。
それがある日、この感覚をひっくり返されたことがありました。
初めて行ったインドでの出来事でした。
インドの知人のお宅で食事にお呼ばれした時、目の前のお皿にドーンと山盛りのご飯が盛られたのです。
私は慌てて『そんなに食べきれないのでもう少し少なくしてください』と言いました。
するとその人は『食べきれなかったら残せばいいのよ。』と涼しい顔で言ったので、私は『でも、もったいないです。』といい返しました。
しかし彼女は『牛が食べるからもったいなくなんかないわよ。』と。
それを聞いて”ゴミとして扱われて捨てられるのではないならいいか。”と安心した自分がいました。
食後にはミルクティが出てきましたがなんだか不思議な味でした。
絶対に知ってるけれどなんだかわからないこの味。
台所では女たちがそのミルクティを飲みながら彼女たちのお家の農作物を床いっぱいに拡げ、コリアンダーの種取りをしていました。
私もその作業を手伝いました。
そして、大凡の種が植物から外されて片付けが始まりました。そこで目ざとい私は『あ!ちょっと待ってまだタネがついてる房がかなりありますよ!』と言ったら『いいのよ。牛にあげるから』と。。。
そこで気がついたのです。
この今私が頂いているミルクティには、このコリアンダーの香りがついているのだと。
牛は食べたものを母乳にして出します。なので、コリアンダーの収穫期には母乳はコリアンダーの香りの余韻を含むのです。
その時に私の食べ物に関するなにかのスイッチは入れ替わりました。
今まで私が食前に唱えていた『いただきます』に違うエッセンスが加わったのです。
このnoteの表紙に使ったお肉はイノシシのお肉です。
私のお世話になっている森の木こりさんが仕留めたイノシシのお肉で、事務所の冷凍庫にはその部位の名称が書かれたお肉が綺麗にしまってあります。
イノシシを始め、ジビエをよく食べる方々はその動物がどこで獲れているかをよく知っています。さらに詳しい人になると仕留め方による味の違いや、地域によって『あそこの地域のイノシシはドングリを食べて育つからとても美味しい』などと話しているのをよく耳にします。
写真に写っているシイタケは山に自生しているシイタケです。
たまに何かの折に現場でこれらのお肉を焼いて頂くことがあるのですが、林業現場はキャンプ場とは違うので、食べきれない有機物は平気でその辺に捨ててしまいます。
お皿も見ての通りスギの木を輪切りにしたものを使い、使い終わったら山に放り投げて捨ててしまいます。
肉は鳥や野生動物が食べるでしょうし、血の沁みた木の輪切りは微生物が分解して土に還ります。
イノシシ猟をしている方に『イノシシ猟は楽しいですか?』と聞いたことがあります。
答えはもちろん『楽しいものではないですね。でも、畑を荒らしたり道を壊してしまうイノシシを獲らないといけないからですね・・・』と。
屠殺をされるために育てられる動物
野生で生きているだけの動物
理由があるので殺しても悪いことではない。
余すことなく食べるからその生物は成仏できる。
そういう単純なことじゃない。
単純じゃないけれど食べるということはもっとシンプルなこと。
何も考えなくて良い訳ではないとは思うけれど、もう少し踏み込んで一旦考えてからシンプルに戻るべきことなのではないかと思うのでした。
”念仏を唱えるから信心深い”
”御墓参りに行くから先祖を大切に思っている”
”『いただきます』と唱えるから食べ物やその命に感謝している”
と私は思っていなくて
”食べるものがどこから来てどこに還って行くのかを知る(または想いを巡らす)こと”
これが頂く命に対する敬意を示す最初の一歩ではないかと
私は今の所思うのです。