否定されずに育った子供はどんな大人になるのか?
IBの特徴として「否定しない」教育方針がある。
果たして、成長過程に置いて、叱られることなく、間違っていると指摘されもせずに育つ子は一体どんな大人に育つのだろうか。
IB校に通わせている親として、自分の子供がどういう人物像になるのだろうと若干の不安と疑問に思ったので考察してみることにした。
3歳児のいたずらっ子に対する学校の対応
これは実際、娘のクラスで去年起こった話。
クラスの中で、naughty(ふざけちゃう)な子がいたという。
そして、その子の保護者が先生との面談で「クラスで〇〇君がふざけると、周りの子がそれに影響されてみんなふざけてしまう。時には面白がって教室から出て行ってしまうことがあります」と先生から告げられたそう。
でも、保護者に注意することは一切なく、子供にもやめさせてほしいなどとは言われなかったらしい。
実際、今でも娘曰く「男の子はふざけて、転がったりしてるけど女の子は真面目に授業に参加してる」とのこと。
あと、男の子のママは「学校のこと、何にも教えてくれない!」と口を揃えて言うのですが、多分彼らは本当に純粋に、ただただ遊んでるだけなのだと思う。
娘は(陰キャの為)普段からよく周りのことを見ていて、「今日は〇〇が休みだった」とか「今日の〇〇のランチはどぎつい黄色のカレーだった」とか「〇〇が粗相した」などとスパイのレベルで報告してくれる。
先生はどのようにしてクラスを取りまとめるのか?
聞くだけでカオスそうなクラスだけど、担任の先生は一体どうやってまとめ上げてるのだろうか。
先日学校に行く機会があったので、娘のクラスをのぞいてみた。
帰りの時間間際だったので、先生が子供たちに絵本を読む時間だったのだが、前の方に座って積極的に話を聞き入る子もいれば、徐々に飽きてきてどこかに行ってしまう子もいた。
そんなとき先生は、その子の名前を呼び、attentionを求める。
名前を呼ばれたからと言って、その子がすぐに絵本の話を聞く姿勢になる訳ではないが、とりあえず「先生は見てるよ」ということだけは本人に伝わっている。っぽい。
ただ、それだけ。
つまりのところ、ふざける子はふざけるし、巻き込まれる子は巻き込まれるし、無関心な子は無関心なままで、集中力のある子は最後まで絵本に見入ってる。
それが全てその子の個性だとして受け止められる。
男の子の中でも、すぐに靴を脱いでしまう子もいれば、その子の靴を持ってきて履かせてあげる母性溢れた子もいて、娘のクラスメイトは性別問わず本当に様々な性格の子が多く、よく言えばバラエティに富んだ、悪く言うとまとまりのない(笑)、でも全員がそれぞれ楽しそうなのは側から見て取れる。
まだまだnaughtyな4歳、5歳なので
さぞかしストレスの溜まるシーンもあるのだろうと思っていたけど IBの経験がある先生は全くそういった素振りを見せない。
というか先生が一番元気で、言葉にするのが難しいけどなんとも言えないオーラというか、全体的にスターのような雰囲気がある。
それはどういう事かというと、例えばクラスの複数人で何かの遊びをするとき、予め先生が生徒と話合ってそれぞれの役割を決める。
Ex.鬼ごっこ的な遊び
「〇〇はbad guy役。〇〇と〇〇はlittle rabbit。〇〇はrabbitを守るなんとか役ね。」といった具合に配役が決まり、その役通りに遊ぶので揉めるシーンは基本的にないらしい。
何より仕切り役でありながら、子供たちと同じ立場で見事に溶け込んでいて、リーダーシップを発揮しているのが先生。
子供たちからしたら、自分たちと同じ仲間であるという。
ちなみに娘にクラスで誰が一番好きか聞いたところ
真っ先に担任の先生の名前を挙げた。
そもそもプログラム自体が否定されるような内容ではない。
鬼ごっこの遊び方一つとっても、後にIBDP(ディプロマ)の特徴でもある "生徒主体となって授業が行われる形式” が取られているのかなと思う。
先生はあくまで ガイド or ファシリテーターの役割。
学びにおける「知」とは、正しい事だけに対するものではない。
自分がマイノリティな意見を持っているからと言って、それが間違っているとは捉えられず、ただ少数派の意見ということで展開される。
とりわけ高学年の授業においては、先生はほぼ発言しないと言った話も聞く。なぜなら先生が生徒に講義をするよりも、生徒たちの考えや発言を優先することがIBの指導にとっては重要。
Artの時間でも、Musicの時間でも
基本的に子供たちは自由なクリエイティブを求められる。
そのため IBのプログラムにおいて生徒が何か自分の意見を否定されるという機会はおそらく一度もないのでは、、?と思った。
自分自身で考えさせることが本来の目的
娘のクラスの話に戻すと、とはいえまだまだ5歳児のクラス。
時には友達同士で喧嘩したり、泣いてたりする子はいるの?と娘に聞いてみたら、「ほとんどないけどたまーーーにある。」らしい。
ではその時に先生はどんなフォローをするの?と聞いてみると、当人同士でとにかく話合うらしい。あくまでも感情的にならず、冷静に。何が原因でそうなったのかを深掘りして解決するらしい。
日本の保育の現場でも基本的にこのスタンスだと思う。
とはいえ日本で通ってたスクールの先生も私から見たら皆優しくて、怖い先生など一人もいなかった気がするけど、娘的には違うらしい。
「マレーシアの学校はトイレが間に合わなくても怒られない」と言ったことがあり、日本では失敗して怒られたことがあったのかな?と思った。
マレーシアの学校においても、時たまトラブルは起こるそうで、そんなとき指導者である先生は、どんな場合においても感情的にはならず、あくまでもロジカルに「何が悪かったのか」を生徒に気付かせることで自己解決させるように促す。
chat GPT4に「怒られずに育った子供はどんな人物像になるのか?」と投げてみたら「自己中心的、対人関係の問題、自己評価の欠如、etc」とyahoo質問箱に書いてそうな答えが返ってきた。
特に幼少期の子供にとって、「叱る」と「怒る」は意味合いがちょっと違うと思う。
トラブルが起こった時に何が悪かったのか、根本的な原因を把握して自己解決させるというのが「叱る」であるのなら、理不尽な理由で注意されるのが「怒る」であり、娘にとってトイレの失敗は怒られる事に入るのだろうか。
日本の保育において、海外と比較すると集団行動や時間的観念を強いられる場合が多く、幼児であったとしても協調性を求められる場合が多いが、こちらではそういったことがなく、全て個性として尊重される。
ただ、他人に何かをしてしまった場合は先ほどのように自己解決させる方法を取るのが大きな違いだと感じた。
決して生徒たちが野放しにされているわけではなく、トラブルに遭遇したときはこの叱る部分まではやってくれているようで、そこは少し安心した。
親はどのスタンスでいるべきか
否定せずに育てたい気持ちもある中で、
やはり親としてある程度厳しく居ないといけない葛藤もあり
正直、私には「全く否定せずに」育てるのはちょっと難しい。。
それほどまで自分の器が広くないことをすでに自覚している。
でも、娘の学校の先生を見ていると、「子供自身に考えさせる」というのは大きなポイントで、それは学校だけでなく家庭でも有効な手法だと感じた。
大人になったとき、きっとこの考える力が他人と衝突した時、自分にとって乗り越えないといけない壁が立ちはだかった時、必ず役に立つ。これらは IBの用語で「risk taker」と呼ばれて、日本語訳とは少し意味合いが異なり
「不慣れな状況に、これまでにない考えや手法を取り入れ、勇気を持って挑むことができる人」と言った意味で使われる。
対人関係や自己評価は学校生活を送っている人であればそれなりに経験していることなので、否定されずに育ったからといって決してこれらが欠如した人物像になるとは言えないと私は思う。
そして個人的に、私は娘に高すぎる自己評価よりも、自己肯定感を持ってほしい。
それは、大人になって社会に出ていく上で最も重要で、他者からの評価はさておき、自己肯定感が高い人は全体的に人生の幸福度が高いからである。
これから中間反抗期や思春期を迎えていく中で、親としても子供が間違ったことをした時にどう叱っていくかは、世界共有の悩みであり
子育てをしている身としては一生気になるトピックである。