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さてと…今日のblogは重い

昨日と今日は腰が重く、二度寝しては携帯のパズルゲームとYouTubeという、いつものルーティーンで一日が終わった。

これを書いている現在も、1/8の3:18という、完全無職を全開にアピールする時間帯。

さてさて、今日は何を書こうかな~昨日今日と、ウォーキングも勿論行ってない。

緑茶と、紫蘇トマト炭酸割りジュース、成田博士のYouTubeをお供に。

このブログは、ただの日記にしようと始めたけど、私がもし、ひょんなことから、死んだ場合に、こんな人生だったんだと残すのも良いかもしれない。

誰に向けた訳ではないけど、こんな女が短い人生の中でもがいていたと。いつまで続くか分からないけど、無職の引きこもりだ、時間はある。

今日は、幼少期の事でも少し書き残してみようか。

幼少期の記憶は本当に断片的だ。母親の記憶は無い。死んだと聞かされ、記憶がある頃には既に、父、兄、私の3人暮らし。

思い出せるのは、辛い記憶の断片しかない。書きながら必死に思い出そうとしている。

この思い出そうとしている行為…ちょっと危ない気もする。過去の記憶をほじくり返して大丈夫か?

取り合ず思い出したままに、書いてみよう。

ある記憶は、夜に外に出され、大泣きしている私が見える。『ごめんなさい入れてごめんなさい』家に入れてと、泣きじゃくっている。

書きながら少しみぞおちが苦しい。

もう一つの記憶は、こたつの中に親父、兄、私の三人が居る。私はこたつの布団で親指を押さえている。出血しているからだ。

それを父親に見つかったら、叱られる。だから隠さなきゃ。

なぜ私は止血する程の怪我をしたのかというと…興味本位で、包丁を取り自分の親指で試し切りをしていた。

5歳にも満たない年頃の時だったと思う。兄に見つかったのか、父親に見つかったのかは覚えていないが、とにかくバレたらまずい‼子供ながらにそのことしか考えていなかった。

痛いより先に、怒られる。そこが先行するような家庭。兄とは8歳離れていて、幼少期は仲良くなかった。

いじめられてる記憶がかすかにある。まぁそもそもほぼ一緒に暮らしてない。

兄が中学になる頃には、兄は死んだはずの母親の所へ行き、終いには父親に福島の親戚の所へ飛ばされ、18歳ぐらいまで福島に居た。

なので私は、ほぼ父との二人暮らしだった。これが今後の私の人生を大きく左右する。

キーボードを打つ指に力が入ってしまう。強めなタイピング。

39歳になった今の私にもまだ影響を与える。《あいつ》との二人だけの狭い狭い世界での日々。

やっぱり、重い腰を上げ、コンビニへ駆け込み、おやつとジュースを買い、ブログを書く準備を整えるべきだった。

こたつ事件の時の家の思い出の一つは、兄が「お前の母親は生きてる、死んでない」と言われたこと。

衝撃を受けたのを覚えている。死んだと聞かされてきたのに、母親は生きてる?なんで親父は噓を付いたのか。

ある程度の歳になった時に知ったが、私が産まれ、記憶もない頃には母親は父のDVで出て行ってたという事。

なので、親父は嘘を付いていた。母親を恨んでいたのか今ではよく分からない。嘘を付いた理由なども分からないが、どうでもいい。

ゆくゆくは、私も母親に会う事にはなるが、またいつか書き残す。

こたつ事件での家での記憶の二つ目は、親父と同じ布団で寝ていた時、違和感を覚え目を覚ます。

親父は「キレイにしようね」的な事を言いながら、私の局部を触っていた。

私は寝ぼけていて、記憶違いなんではないかと、今でもこの記憶を否定する自分が居る。

それ以降は、性的虐待は受けていないはず。中学3年の時に近い事件はあったが、また今度。

こたつの家はこの二つしか記憶がない。

保育園に通っていた私は、保育園の記憶もほぼ無い。一緒のクラスの子達は少なかったので、なんとなくメンバーは覚えている気がする。

ませていた子供だった気がする。初恋も保育園の同級生のトオル君だ。

それぐらいしか記憶に無く、本当に幼少期の記憶はどこかへ行ってしまった。

次に思い出すのは、物心付いた頃か?小学校の頃の思い出も、パッと出てこない。

気が強かった小学生時代、いじめたり、いじめられたり。

クラスも1クラスのみで30人程度だった気がする。クラスメイトは本当にごく一部しか覚えてない。

小学校低学年…何かあっただろうか…

↑ここから全く思い出せず、アルバムを押し入れから引きづり出し、保育園の頃から遡ってみた。

幼少期の写真は人並み?にはある。何があったのか、ある程度のイベント事の写真もある。誕生日、クリスマスは無いが、学童保育に通っていたので、学童の写真が多かった。

一通り見返した。結果、思い出せない。前に書いた、クラスメイトを覚えていないという事は、アルバムを見て、あぁ、こんなメンバーだったと思い出した。

それでも顔を見ても誰?というようなメンバーも居た。たった1クラスのメンバーなのに。

ここまですっぽりと低学年の記憶も無くなるものか…小学校時代の思い出…。

親父が狂いだしたのも小学生の時だったし、たぶん、自分で記憶を消したんだろう。

消したい記憶は沢山ある。

いつ頃から始まったのか、父親の奇行、アルコール中毒。

暴力は日常的だったし、8歳上の兄は木刀で殴られながら育っている。私は記憶に無いが、本人談プラス家には木刀も勿論あった。

家は、親父が怒ると話してはいけなかった。もし話しかければ、当たり前のように《̪シカト》される。

書いていて思い出した出来事がもう一つ。もちろん、良い思い出でない。

保育園の頃に後楽園遊園地か、浅草の花やしきか、どちらかへ行ったとき、乗り物に乗る為に並んでいた。

その時、私の前に並んで居た、私とさほど変わらないぐらいの少年となぜか喧嘩していた。

それに怒った父親が、その場から一人離れたのか?記憶が定かではないが、はっきり覚えているのは、《私は置いて行かれた》という事実。

記憶にあるのは、遊園地から、駅のホームに居る、私と親父の記憶まで飛ぶ。

そして、私は必死に置いて行かれないよう付いて行っている。

親父が電車へ乗り、私も追いかけ別のドアから電車へ乗り込む。すると親父は電車から降りた。私も降りる。

そしてまた、親父が電車へ乗り、私は乗り遅れ置いて行かれた。

そこからは記憶がない。私の中には、《ただ、父親に置き去りにされた》という事実だけが残った。

そこからどうやって帰ったのかも、もちろん記憶にはない。

小学校低学年までの記憶なんて、そんな物しか残っていない。

あとは、大型連休になると、親戚連中を連れ、親父自慢のキャンピングカーで地元福島の親父の兄貴の所へ行く時の出来事だ。

この行事は、福島の父の兄貴が亡くなるまでは続いた。若くして亡くなったので、私が小学校中学年になる頃には亡くなった気がする。

その福島旅行では、よく《常磐ハワイアンズセンター》へ行った。今は名称が変わっている。

ハワイアンズセンターは好きだった。あの独特の匂いは何となく覚えている。

あと記憶にあるのは、親父が必ずガラス細工の小さな動物達のお土産を持ち帰って居たこと。

自宅のトイレに沢山ガラス細工が飾ってあった気がする。

当時は分からなかったが、子供ながらに何だかその《お土産》を持っている事に違和感を覚えていた。

親父はいつ、ガラス細工を《購入》していたのか?子供ながらに、そう思う出来事が度々起こっていた気がする。

大人になれば分かるが、要は《手癖》が悪いという事。それは幼少期の私にもキッチリ受け継がれていた。

私も物心付く頃から、中学生の頃までは手癖が本当に悪かった記憶がある。

捕まった事もある。親戚のおばちゃんの《口紅》、福島に行くと、おばちゃんの化粧品を盗む。

そしてバレ、怒られた記憶はある。私の小学校時代は男の子をよく殴ったりしていた。

気も強く、手癖も悪い。親父そのもの。気持ち悪い。

あぁ、親父の奇行とアル中の始まりは、きっと親父の兄貴の死と、親父の母親の死が短い期間に起きたからかもしれない。

といっても。数年単位の間だった気がする。とても母親っこだったのも記憶にある。

正月は必ず父親の妹の家に同居していた、母親の所に皆が集まり、花札が始まったものだ。

親父は確か末っ子?ばあちゃんには、色々、親孝行をしていた気がする。

そんなばあちゃんが死んでからだろう。親父という人間は弱い。本当に弱い人間だ。

酒に溺れるようになっていった。その頃の記憶も私は曖昧だが、親父に《された事》は覚えている。

奴が、帰って来ない日があった。そんなのは初めだったと思う。次の日に頭に怪我をして帰宅した。

何故だかは覚えていないが、きっと酒に酔っての出来事だろう。曖昧な記憶だが、警察沙汰になることもあった。

そして、これから書く出来事は、アル中の症状だったのか、それとも薬物でもやっていたのかは分からない。

その出来事は《幻覚》だった。ある時は、『ぬいぐるみが笑ってるy』と叩き起こされた。

その当時の私は、ドラえもん生活。2DKのアパート暮らしで、押入れで寝ていた。

そんな起こされ方をして、こいつは何を言ってるんだと、その時は相手にしなかったかもしれない。

ただ、ぬいぐるみが動いてると叩き起こされた記憶のみ残っている。

更に幻覚事件は続く。

その日の幻覚は酷い。私はまた押し入れで寝ていた。親父は何か独り言で話している…何を言ってるのか…

そして私は叩き起こされる。

『○○どこに居るんだよ‼‼‼‼‼おい‼‼‼○○どこだ』私の名前を叫びながら私を叩き起こす。

私は一瞬、訳も分からず固まる。次第に恐怖や、どうしよう、不安が襲う。

親父は『○○がいねんだよ』『¥@pk;lじひふ』何かをずっと訴えていた。

私の部屋を徘徊しながら、何かを叫び続けていた。最初はどうにか、元に戻ってほしいと私なりに対応した。

私を捜す事以外に何を言っていたのかは、覚えていないが目に見えない誰かと話していた。怖くて押し入れに私は逃げ込んだ。

そこからの記憶は無い。どうやって収まったのかも分からない。

その頃にはハッキリと、色んなものが壊れ始めた。

これは小学校の3.4年生ぐらいの出来事だろう。

今日はここまで。

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