胡乱なブックレビュー

吉屋信子『花物語』論―「スイートピー」からみる『花物語』の変遷―・まとめと追記

 吉屋信子『花物語』について長々語ってきた(卒論だしそれはそう)が、この投稿でまとめを記し、参考文献を述べて終わりだ。

前編

後編


○まとめ
 綾子が「ピーさん」と呼ばれるようになったのは、学校の花壇でスイートピーを育てることになったからだが、それは様々な花の種が先に来た生徒たちに配られていき、最後に残ったスイートピーが、遅れて来た綾子の手に渡ることとなったからだ。つまりスイートピーは、少女たちに配られる中で最後の花ということだ。
『花物語』単行本第一巻の巻頭には〈返らぬ少女(おとめ)の日の/ゆめに咲きし花の/かずかずを/いとしき君達へ/おくる。〉と記されているが、まさに『花物語』を読者の少女たちに贈られる花々とした時、「スイートピー」こそその最後の一輪なのだ。
(〈悲絶哀絶断腸之記〉なる語を生み出した〈校友会誌〉が、『花物語』の最初の篇(つまり「最初の一輪」)と同じ名前である『鈴蘭』なのも、意図的か無意識の産物か、いずれにせよ単なる偶然とは思えない)(名推理)
 尤も『花物語』とその読者について久米依子は、〈展開も結末もあらかじめ読者に了解されている小説群〉〈にもかかわらず飽きられることなく繰り返し読まれたのは、物語が指示する単一の意味よりも、美文で綴られる女性像や別離の悲傷といった、優美な場面や感情再現の過程そのものに読者が魅せられたから〉とやや批判的に分析しており(「エス 吉屋信子『花物語』『屋根裏の二処女』」152頁)、これもまた一つの真実かもしれない。癪だけど。
 しかし吉屋自身はあくまでも、〈おろそかに少女小説を書いては罰があたると、自らを戒め〉ていた(吉屋信子「投書時代」…『吉屋信子全集』12巻)。

『花物語』の変容について、高橋重美は〈自らが作り出した非時間的な少女表象に主体的な行為を導入し、少女自身(・・・・)の物語=時間を語ろうとする試み〉だが、〈『花物語』というテクストの歴史的価値は、その試みが挫折してゆくプロセスにある〉(前掲論 80-81頁 傍点は原文ママ)とし、「薊の花」掲載の翌月から早くも連載開始した長編『三つの花』を〈親の決めた婚約者を素直に慕う長女の規範性と、純真な心で頑なな叔母を改心させる三女の健全さに挟まれて、『花物語』の抱えていた危うさはほぼ払拭されている〉と評する(前掲論 87-88頁)。
 逆に言えば、〈危うさ〉を大いに抱え込んでいることが、『花物語』が〈吉屋信子個人の少女小説作品群においても異彩を放つ存在〉(横川寿美子 前掲論 1頁)である所以だろう。また、そもそも『花物語』は、連載中に〈「少女小説」という肩書きが付いたことは、最後期の数編を掲載した『少女倶楽部』も含め、管見(引用者註…高橋の調査)では一回もない〉(高橋重美 前掲論 78頁)。
 結局、少女小説としては危うすぎ、大衆小説としては耽美的すぎるこの作品を包括しうる定義はなく、『花物語』は『花物語』であるとしか言いようのない作品なのだ。
 吉屋はそんな『花物語』のことを、〈生涯への出発点、わが文筆生活の、なつかしき、((揺籃))〉としている(『花物語』はしがき)。そもそも吉屋は〈少女雑誌に一切の筆を絶〉つつもりだった(「少女倶楽部」3巻7号)のだから、即ち「スイートピー」は最後の少女小説となるはずだった。であればそこに、『花物語』から次の作品へ旅立っていく吉屋の決意が読み取れるのも自然なことだ。
「投書家」と「小説家」の間でたゆたう時期を越え、少女小説という領域における様々な制約を実感させられた吉屋は、〈揺籃〉を飛び出さんとするその時、少女同士の「真実の正しい恋愛」を描ききらなくてはならなかった。それはまた、読者の少女たちへの訴えかけであると同時に、10年に亘って描いてきた何十人もの哀しい少女たちへの手向けでもあった。
 吉屋は文筆の道を真摯に見つめ続けた作家だったが、同時に晩年まで〈童児のごとくに無邪気で可愛い人〉(吉屋千代「萩の旅より帰りて」…『吉屋信子全集』月報12号)だったという。吉屋を知る他の人々も、永遠の処女であったとか、晩年までも青春を生きていたなどと彼女を評する。
「スイートピー」の最後の最後、〈いかに人々。〉という拙い一言となって溢れ出たのは、吉屋自身の自ら描いた少女たちへの愛、そして誌面の向こうにいる少女たちへの愛だったのだろう。


〇参考文献
『花物語』上・下 吉屋信子・2009・河出書房
「花々の闘う時間――近代少女表象形成における『花物語』変容の位置と意義――」
 高橋重美・2008・日本近代文学会『日本近代文学』第79集収録
『吉屋信子全集』1巻、12巻 吉屋信子・1975(1巻)1976(12巻)・朝日新聞社
「吉屋信子『花物語』の〈孤独〉――少女型主体――」
 毛利優花・2007・金城学院大学大学院論集編集委員会『文学研究科論集 13』収録
「少女画報」東京社
 第12年第7号…1923・7・1
 第13年11号…1924・11・1
「少女倶楽部」大日本雄弁社
 第3巻第7号…1925・7・1
 第3巻第11号…1925・10・1
 第3巻第12号…1925・11・1
『近代女性作家精選集 029 吉屋信子『海の極みまで』』吉屋信子・2000・ゆまに書房
「吉屋信子「花物語」の変容家庭をさぐる―少女たちの共同体をめぐって―」
 横川寿美子・2001・美作女子大学・『美作女子大学・美作女子大学短期大学部紀要 Vol,46』収録
「吉屋信子『花物語』における境界規定――〈少女〉の主体化への道程――」
 安藤恭子・1953・日本文学教会『日本文学』第46巻第11号収録
『サッフォー 詩と生涯』沓掛良彦・1988・平凡社
『改訂註釈樗牛全集』第六巻 高山樗牛・1980・誠進社
「水甕」水甕社
 第2巻第1号…1915・1・1
 第2巻第2号…1915・2・1
 第2巻第3号…1915・3・1
 第2巻第4号…1915・4・1
 第2巻第5号…1915・6・1
『考証少女伝説――小説の中の愛し合う乙女たち』大森郁之助・1994・有朋堂
『復刻版 黒薔薇』吉屋信子・2001・不二出版
『菊池寛全集』第1巻 菊池寛・1993・高松市菊池寛記念館
『「少女」の社会史』今田絵里香・2007・勁草書房
「エス 吉屋信子『花物語』『屋根裏の二処女』」
 久米依子・2001・『国文学 解釈と教材の研究』第46巻3号収録


おわり!!!
ここまで読み切ってくれた人はほんとうにすごい。拍手を送ります。

 文学研究というフィールドで『花物語』は概ね初期の未熟な作品とされてて、大して評価されていなくて、まあこれはその風潮にキレた俺が『花物語』素晴らしいだろぶん殴るぞという怒りをしたためた文章である。学術的な装飾を精一杯してるけど要はそういうことです。ほんとに国会図書館で論文漁ってる間ずっとハアア~~~~~?????? って言ってた。心の中で。

 でも卒論、色々調べ物をしたり一つの作品に齧り付くように集中したり、今までしたことのなかった体験ばっかりで、面倒だとも思わないでもなかったけど、振り返れば結構楽しかったなあ、とは思う。
 教授が吉屋を研究していたので、俺が取ってきた資料をそのまま教授が別のことに使ったり、逆に教授が持っていた資料をそのまま借りてきたりもして、他の人に比べればだいぶ楽をさせてもらった、というのもあるだろうけど。


 ここからは論とは関係ない話になるが、いつか「新約花物語」みたいな作品を発表してみたい。
 内容は二つ考えていて、一つは独立した百合短編を52篇或いは54篇用意するもの。
 もう一つは、女子校・〈病〉・七人の少女などのエッセンスを使いながら、論でも取り上げた『屋根裏の二処女』や、「黄薔薇」と類似性が見られる長編『黒薔薇(くろしょうび)』などの要素も取り入れた連作短編の形。
 現実問題一人で百合短編を52編用意するはかなりしんどいので、恐らくやるとしたら後者になる。そもそもやるかどうかも分からないけれど。
 でも、一つの作品にここまで真剣に長々向き合ったという経験をくれた『花物語』に対して、このままただの読者に戻ってしまうのはちょっともったいないなと思うのだ。

 ていうかとりあえず吉屋信子の著作、どこからでもいいから文庫化とか復刊とかしませんかね……俺が有名作家だったら意地でも新約花物語を出して日本中で大ヒットを飛ばしてその影響力を以て吉屋作品の一斉復刊を成し遂げるのに……

いいなと思ったら応援しよう!

秋山幽
こちらはいわゆる投げ銭機能です。頂いた収益は秋山幽の健康で文化的な生活を維持するために使われます。