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比喩探しをサボっている
感覚・感情の比喩探し
感覚や感情をことばであらわそうとしたときに、適切な比喩を探そうとする感じにはなるわけだけど、そこの比喩の模索にあんまり必死にはなれていないな、って感じた。手を抜きがちだ。逆に、見て取った構造や、考えていくプロセス、思ったことに対して、たとえ話を考えるのは、比較すれば、頑張ろうという気概がなくもない。好き嫌いと、慣れ不慣れと、得意不得意が入り交じっているんだとは思うけど、いずれにせよ、同じくらい頑張ってみていいんだよ、とは思った。
感覚や感情に関しては、慣用句や紋切り型の言い回しを避け、特別さや独自さ、一回性を崩さぬよう、丁寧に、適切なことばを探していかないと、いつの間にか意味が失われてしまうのだ、くらいの印象もあって、おそるおそる触れてみるのがよいんだろうとは思っているのだが、しかしそれが、あまりにも面倒で、手を出さないようにしているフシもなくはない。及び腰になって0点のままにするくらいなら、おそるおそるでいいから失敗前提でやってみて、1点だけでも獲っておいたほうがよいよ(そもそも最初っから上手くできるひとなんていないのだし、最初っから成功する前提なんてむしろ傲慢じゃん)みたいな話もあって、まあそれもそうか、とも思う。練習なり試行なりを避けて自尊心めいた虚栄心を維持しようとしているのも、けっこうアレだし(ほんと常にアレだ)。
感覚・感情の比喩の正誤判定
書いているうちに思ったのだけど、構造とか経路とかに関する"たとえ話"って、多少は、正解というか、妥当性みたいなものが、いちおうは、あるのだよな。ある程度は正誤判定ができる。でも、おそらく、感覚や感情に正解はない。適合しているかどうか、みずからのフィーリングに、丁寧・慎重・真摯に尋ねていくしかない。カレーみたいな憤りとか、徹頭徹尾きびしいキツネのような気持ちとか、まるで扇風機を梳かすみたいな音だったとか、よくわからなそうなことばが書かれていたとしても、「間違ってる」とは言い切れない。
誰にも理解されることはないかもしれず、しかしそれでも、そう書くしかない、それくらいのところまでにしか(少なくとも今の自分には)手が届かない、ということだって、もちろんありうる。それが怖いのかな、とは思った。「合っているも間違っているもない世界なんて怖すぎて、手を出したくないよ~」的な、及び腰の話は、ないとは言いきれない。こんなもんいまさらという気もしてきたが。