アンチナタリズムの考察:4/4
追記:2020/11/17
この文章には論理的でない部分,説明や根拠の不足している箇所があります。その点を踏まえて読み進めて下さい。
前回の考察から1週間ほど経ちました。
前回からの進捗を掲載していきます。
まずこれ。
産む前に大変だって分からなかった?→分かりません!!!
— 自重 (@disacter_777) March 28, 2019
なら尚更産むべきじゃないし,自分が有頂天になってたとしても子どもを同意なく産んだ事実は帳消しにならない
気分が舞い上がってるからって許される行為じゃないと思う https://t.co/OauCWMi3NV
出生に関して問題意識を持たなかったことに対して、こんなに堂々と「分からない」と言えてしまうことが何よりショッキングだった。
たとえ人生の春でも,考えるべきことは絶対あるんだよなと思う。大変さにはとても共感できるけれどね…
— 自重 (@disacter_777) March 28, 2019
本当に,自分達は楽観的に考えて行動してしまう生物なんだということを人類全員知った方がいい
— 自重 (@disacter_777) March 28, 2019
まずは,目の前の一見当たり前とも思える物事の数々にリスクが潜んでいる,こういうことに気がついてないんだと自覚しなきゃいけないと思う
また、この件に関しても深く考えさせられた。
点数で例えると,30点から50点になるのと70点から80点になるのどちらがすごいか,みたいな。伸び率やプロセスも大事だけど点数,結果から逃げちゃいけないと思う。我が子から裕福な家庭の存在を指摘されたら,親はどう説明するんだろう。「自分は頑張って育てた」じゃ問いの答えにはならない。 https://t.co/MwTaaG9niN
— 自重 (@disacter_777) March 28, 2019
比較には際限がない。世界でいちばん幸せになるまで、幸せを求め続けるのだろう。それが現実的かどうかは置いといて、人間とはそんなものだと感じた。
次はこれ。
このよく聞く『もう一度赤ちゃんに会いたい』ってフレーズ、おかしいと思うのは私だけ?
— うずらますたーLv.3(どく) (@Hanamuguri8782) March 29, 2019
どの子もたった一人の人間なんだから、『もう一度会う』なんてのはないんだよ。みんな『初めまして』なんだよ。 https://t.co/vyRh18JmrI
欲しいのはその人自身じゃなくて,「赤ちゃん」という属性,要素でしかないということか。言葉も出ない。
— 自重 (@disacter_777) March 29, 2019
こんな考えを持っている人間は少なからず居るだろうし、彼らが親になることを想像すると複雑な気分になる。
ANに関してはクリティカルな意見を発見することが多々あった。
命の尊さを説くのに「あなたは何億分の1という驚異的な確率で生まれてきた」と言う人がいるが、私はその人に「では、あなたは何億分の1という驚異的な確率で罹患する耐え難き苦痛が生じる難病に罹患したいと思うだろうか?」と質問したい。
— 古野裕一 (@hurunoYuuichi) March 31, 2019
命の希少価値は出生のデメリットを相殺しない。
「反出生主義者は何でも親のせいにする!」って言ってくる者がいるが、子供に起こる個々の全ての現象は存在を与えた親が原因の「一部」を構成しているのは事実だし、反出生主義者は子供に起こる個々の全ての現象は親が原因の「全部」を構成していると主張しているわけではない。
— 古野裕一 (@hurunoYuuichi) April 1, 2019
反出生界隈では生殖した者の証として妊婦を嫌悪対象にしがちですが、我々は単なる妊婦嫌いではなく反出生主義者なのだから、我々が一番の批判の対象とすべきは「生殖を良しとする考え方」すなわち出生主義であることを忘れてはなりません。
— 古野裕一 (@hurunoYuuichi) April 1, 2019
親に全ての責任がある場合もあるが、多くの事例は元を辿ればこの生物システム、親を生んだ祖父母、またその先祖...という風にきりがない。
また状況に人間の行動が大きく左右されることは日々よくある。(しかしこの状況を作っているのもまた人間なのだが。)
一部ながら,親にも環境にもそれぞれ責任があるということだ。状況の力というものは侮れない。
— 自重 (@disacter_777) April 1, 2019
そして今週一番勉強になったなと思うのがこのやりとりだ。
自分の人生おおむね楽しくてなお反出生主義の立場をとるという人はいるのかな。
— Lesser C (@L_ChKR) March 30, 2019
ここにいます
— 自重 (@disacter_777) April 2, 2019
実際には感じているけれど隠蔽された苦痛、というのがわかりません。実際には感じているけれど隠蔽された幸福もあるのでしょうか。無いとすれば、片方が存在し、片方が存在しないとする根拠はあるのでしょうか。
— Lesser C (@L_ChKR) April 3, 2019
空腹を感じなければ、苦痛が先延ばしにされるが、先延ばしにされている間は苦痛はないと思います。
— Lesser C (@L_ChKR) April 3, 2019
「事故が起こるかもしれないから車には乗らない、事故で失うものの大きさは車に乗って得られる便利などでは埋め合わせられない」という人がいたとして、私は、「そういう考えの人がいてもいいと思うけど、俺は車に乗ることが全体的に見て良いと思うから乗るよ」と思いますが、
— Lesser C (@L_ChKR) April 3, 2019
この話も同じように、リスクとベネフィットを個々人の捉え方でどう見積もるのか、という問題であって、論理的帰結として結論が出せるものではないと感じています。
— Lesser C (@L_ChKR) April 3, 2019
できれば全体を見てほしいが、強調したい点を抜粋している。
疑問点として挙げられるのが、
〇人生や任意の物事に対する考え方の違いがANの理論をなしているのか(だとしたら論理的帰結として結論は出せない)
〇バイアスなどで隠蔽されていて実際には体感していない苦痛や幸福を根拠・材料として「人生は不幸で満ちている」と判断することが有効なのかどうか(→実際の感覚として苦痛を感じていなければ、その苦痛にバイアスがかかっていようが隠蔽されていようがその苦痛を感じて困ることはないため問題ではない、という考え)
〇ANは、いくら理論を展開し正当性を論じたとしても、相手が最終的に「それでも産む」と決断した際それ以上の干渉ができない(押しつけになる)という問題
である。
難しい内容ではあるが、これからこの3点について特に考えていきたいと思う。
Twitter、このnote上でもこれに関して意見を募集します。遠慮なくどうぞ。
それでは。