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文章を綴ること

文章。それは私が私である証拠。

私は文章を綴ることが好きだ。活字に触れながら、自分を表現することが好きだ。そして素敵な文章を見い出せる人間のことを心から尊敬している。

私は考えていることを文章にすることで、初めて自分の思想に辿り着く。自分の思惑を昇華出来る。何度も何度も自分の考えを自ら反芻して、「考えについて思考」して、それを一つ一つの言葉で表す。そんなことの繰り返しで自分がいつ何を、どのように考えているのか初めて理解をする。自分で自分が分からない、迷路からの脱却を試みることが出来る。

知識は際限がない。
それと同じくらい、表現には際限がない。
豊かな言葉の世界に永住しながら、見知らぬ草花に手を伸ばすように、新しい言葉に触れるのがこの上なく好きだ。

文章を綴ることを楽しいと感じるようになったのは、一体いつからだったかと考える。恐らく大学に入ってからだろう。「大人になってから学びたいと思うことは、本当にやりたいことだ」などと巷ではよく言うけれど、遅咲きの感覚こそ勉強ではなく学びなのだ。そう考えると私は大学生活で「勉強」ではなく「学び」を得ていたのだなと振り返ることが出来た。

大学では文学を学んだ。そこで出会ったのは、戦争の時代を生きた文豪たちの窮屈で、それでいて壮大で、寛大で、愛に充ちた文章の数々。読めば読むほど惹き込まれ、人生を変えられてしまう。目が眩むような美しい言葉の世界にすっかり魅入られた私は、こんな素敵な表現のある言語を話す日本に生まれることが出来て誇りにすら思った。そして文章を綴ることの素晴らしさを知り、言葉を学びたいと思えるようになった。学びとは人間として生きる上で常に失ってはいけないもののように感じるし、それを自分が失っていないことに、時に安心する。

文章は、自身の姿見だ。
読者からすれば、作者の写し絵のようなもの。
命を削って、文字を紡いで、言葉に変える。
有限の姿無き"命"のかたちを、そこに在ると証明するひとつの手段だと私は思っている。

生きるとはどういうことだろう。それはきっと一個人によって考え方は異なるだろう。

喜びを感じること?悲しみを謳うこと?
ひとを大切にすること?してもらうこと?
愛すること?憎むこと?そっと抱き締めること?
囁いて、目を合わせて、微笑み合うこと?
空を見上げて、遠くの最愛を偲ぶこと?
そして共に死ぬことか。

私は「言葉を紡ぐこと」だと思う。
活字でなくてもいい、声に出して発するだけでも構わない。何かを感じて、何かを想って、それを自分の言葉で示していく。自分が此処にあることを、端的且つ大胆に、そして時に繊細且つ慎ましやかに表現する。それを私は、敢えて活字に表したい。

そんなことがいつの時代にも自由に出来たなら、私は幸せだな、と思うのだ。

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